2012年6月13日水曜日

牛後が読む(その4)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後




まじり気のなき五月雨を待ちにけり


「まじり気のなき五月雨」とはどういうものだろうか。この「まじり気」というのは、もしかしたら放射性物質のことかもしれないが、ここでは心象風景と読みたい。

日常生活を送っていて、否応無しに心の底にたまってくる夾雑物。それを洗い流すには、単なる五月雨では足りない。泉からこんこんと湧き出るような、まさに「まじり気」のない五月雨でなくては。そんな五月雨の日は、両手を広げて空を仰ぎ、全身に浴びるのだ。「まじり気」のない子どもの頃に還ったように。

と、ここまで書いて、やっぱり気になるのは放射性物質のこと。作者は道内在住だからたぶんそのような意図はないと思うが、そんな読みを排除することができない心理もまた、夾雑物のひとつかもしれない。



葉桜となりて切り出す話しかな




葉桜には二つの気持ちがこもるという。「もはや葉桜になってしまったと花を惜しむ思いと、桜若葉のすがすがしさを愛でる思い」(角川俳句大歳時記)。掲句は、そんな二つの思いを十全に表現した巧みさが光る。

「切り出す話」としてまず想像するのは別れ話だろう。なぜ葉桜となって切り出したのか。桜が眼前にあったときには高揚していた気分が落ち着き、冷静になって考えて別離という結論を出すに至ったのだろうか。はたまた、桜が散ってゆく哀れさに、相手を支えていくという熱意を失ったのか。

理由はどうあれ、作者は別れを切り出し、そして、桜若葉のような新しい人生を始める決意をしたのだ。



蒲公英の絮や母には母の夢



歳時記では「蒲公英の絮」は「蒲公英」の傍題で、独立して解説はされていないが、この季語もふたつの意味を持っていると思う。ひとつは、ふわふわと風に流される儚い存在として。もうひとつは、どこにでも定着して根を張る強さとして。

掲句は後者を詠んだものと解釈したい。そうでなければ、ちょっと悲しすぎるからだ。

年老いた母親。若い頃には若い頃の夢。デパートガールにでもなりたいと思っていただろうか。子育てをしている時期には、息子の成長が夢だったのかもしれない。そして老境に入って今の夢は何だろう。いつまでも孫が会いにきてくれることか。同じように年老いた伴侶といつまでも仲良く暮らすことか。

そう。年をとっても、きっと夢はいくらでもあるのだろう。母親をそんな優しい目で見ている作者の気持ちに、幸せな気分にさせてもらった。


(つづく)

0 件のコメント:

コメントを投稿