2012年8月24日金曜日

芥川龍之介の俳句を語る(俳句集団【itak】第二回・講演会論考)


 芥川龍之介の俳句を語る
      ー「水涕」の句を中心にー 
                    
                             今田 かをり

Ⅰ はじめに


 芥川龍之介〈明25(1892)・3・1~昭2(1927)・7・24〉は、短歌や旋頭歌なども
作っているが、詩歌の中では断然俳句の数が多く、千句余りの句を残している。
しかも、彼は死の直前まで「俳句」という詩型を手放すことはなかった。そこで、
芥川が「俳句」を愛した理由、そしてまた、辞世の句ともいうべき「水涕」の句を
考察してみたいと思う。

 まず芥川の句集についてであるが、以下のものがある。


 
①加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』(平22・8、岩波文庫)

 芥川の作品の他、ノート、手帳、未定稿、日記、短冊などの自筆資料、芥川以外
 の第三者による作品中から、編者により1158 句を選び収録。ただし、原資料が
 確認できないため、②村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』に収録の句で 
 あっても記載されていないものもある。年代による編集。

②草間時彦編『芥川龍之介句集 夕ごころ』(平5・3、ふらんす堂)

 編者により318 句を精選。

③村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』(昭51・3、永田書房)
  
 芥川の作品の他、ノート、手帳、未定稿、日記、書簡、真蹟などから編者によっ
 て1014 句を収録。季題による編集。

  ちょうこうどう
④『澄江堂句集』(昭2・12、文藝春秋社出版部)

 『梅・馬・鶯』(大15・12、新潮社)に収録されている「発句(74 句)」に3句を
 加えた77 句を、彼の四十九日に芥川家が配ったもの。その後、市販された。
 実は、芥川自身は、生前一冊の句集も出版していないが、④の『澄江堂句集』
 にして、妻の文さんが次のように語っている。

  
 主人は亡くなる前年の、大正十五年の夏、鵠沼(くげぬま)にいました
 私達の家へ長崎から渡辺庫輔(くらすけ)さんを呼びました。/主人は
 今まで作りましたたくさんの俳句を整理して、その中から七十七句を
 抜き出して、渡辺さんに清書をしてもらいました。/きっと思うところが
 あって、清書してもらっていたのだと思います。/主人が亡くなりまして
 から、この句集を印刷にしまして、それと日頃使用しておりまし印の
 いくつかを捺したものとを、二冊にして、横十三・五センチ、縦二十七
 センチの和に収め、和綴にして、藍色木綿の表紙の三つ折の折た
 たみの中に収めて、『澄江堂句集 印譜附』としてお返し用に、それぞ
 れお送りいたしました。
                   〈芥川文〈述〉・中野妙子〈記〉『追想 芥川龍之介』(昭50・2、筑摩書房)〉



 これが『澄江堂句集』の復刻版であるが、妻であった文さんの言葉から、死を覚悟
 した芥川が、千句余りの句の中から選び抜いた77句だということができる。


Ⅱ 芥川龍之介の句歴

 句歴については、芥川が随筆「わが俳諧修業」で、四つの時期に分けて書いている。

 ①小学校時代

 
  尋常四年の時(明34、満9歳)で初めて十七字を並べる。

    落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな


  
 ②中学、高校、大学時代 

  子規などの著作は読んでいたようだが、句作は殆どしていない。

 ③教師時代

 東京帝大を卒業後、海軍機関学校の英語の教官となった大正5年から急速に、俳
 にのめりこんでいく。その理由として、二つ考えられる。
 まず一つ目が、この大正5年という年は、芥川が発表した小説「鼻」が夏目漱石
 激賞され、文壇にデビューした年であり、それ以後芥川は、頻繁に漱石山房に出入
 りするようになる。そこで、俳句を作っていた漱石はもちろんのこと、同じく漱石
 山房に出入りしていた久米正雄(俳号は三汀)らと交わる中で、次第に俳句に興味
 を持ったのではないかということ。
 二つ目の理由は、高浜虚子の住む鎌倉に住むようになり、また『ホトトギス』へ
 の投句も始めたということ。

  
  蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

  青蛙おのれもペンキぬりたてか

  木がらしや目刺にのこる海のいろ


   
 ④作家時代

 芥川は大正8年に教師を退職し、念願の作家生活に入る。そして『ホトトギス』
 脱退し、俳壇とも関わらず、句作をつづける。その時に彼の拠り所となったのが、
 とりわけ 芭蕉の蕉風を中心とした 江戸の俳諧であった。 ちなみに芥川は 終生、
 「俳句」とは言わず、「発句」と言っていた。

  元日や手を洗ひをる夕ごころ

  初秋の蝗つかめば柔かき

  臘梅や雪うち透かす枝のたけ

   (亡くなる昭和2年の5月の初め、北海道へ講演旅行に来て作句)

  冴え返る身にしみじみとほつき貝

  雪どけの中にしだるゝ柳かな



Ⅲ 俳句を愛した理由

 次に、芥川が俳句を愛し、死の直前まで手放さなかった理由を探ってみたいと思う。
今のところ私は、三つの理由を考えている。

◇家庭環境

 芥川の随筆に次のような一節がある。

   私の家は代々御奥坊主(おおくぼうず)だつたのですが、父も母も甚(はな
  はだ)特徴のない平凡な人間です。父には一中節、囲碁、盆栽、俳句などの
  道楽がありますが、いづれもものになつてゐさうもありません。母は津藤(つ
  とう)の姪で、昔の話を沢山知つてゐます。その外に伯母が一人ゐて、それ
  が特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一
  番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通点の一番多いのもこ
  の伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわか
  りません。/文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ
  伯母も可成(かなり)文学好きだからです。その代り実業家になるとか、工学
  士になるとか云つたら反つて反対されたかも知れません。
            〈芥川龍之介「文学好きの家庭から」(大正7・1、『文章倶楽部』に掲載、全集第三巻所収)〉


 
 このように文学好きな人たちに囲まれ、江戸の文人文化が色濃く残っている家庭
境で育つという、俳諧に親しむ素地があったことが大きいのではないかというこ
とが一つ目の理由である。


◇最短の詩型


 次に考えられる理由は、俳句のその「短さ」である。これも彼の随筆からの
引用である。


    「もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ」とは屢、諸君の勧める
  言葉である。僕も告白をせぬ訳ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の
  験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身
  を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。
  おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名仮名を
  ずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。

 
                         〈芥川龍之介「澄江堂雑記』、「告白」(大11・8、 全集第十巻)〉


 
 このように、あからさまに自己をさらけ出すことを拒んだ芥川にとって、五・七・
五という世界最短の詩型は、不自由さよりもむしろそれがかえって魅力的だったの
はないか。また、芥川は、推敲に推敲を重ねるタイプの作家であり、一字一句に
こだわって句を作るという行為そのものが、彼の資質に合っていたといえるのでは
ないだろうか。


◇「点心」のようなもの


 三つ目の理由は、芥川が俳句をどうとらえていたかということに関わっている。
下生の小島政二郎への書簡(大7・5・16)の中で、芥川は、「此頃高浜さんを先生
にして句を作つています。点心を食ふやうな心もちでです」と書いているのだが、
その「点心」ということについて、随筆で次のように述べている。


   点心とは、早飯前及び午前午後哺前(ほぜん)の小食を指すやうである。小
  説や戯曲とすれば、これらの随筆は点心に過ぎぬ。のみならずわたしは
  この四五年、丁度点心でも喫するやうに、時々これらの随筆を草した。


                           〈芥川龍之介 随筆集『点心』自序(大11・5、全集第九巻)〉



 この中に出てくる「随筆」の部分を「俳句」に置き換えると、俳句を作るという
とは、芥川にとって、本業の小説を書くという行為とは違った楽しみだったので
はないか、まさに点心を喫するように、俳句をもてあそぶことが彼の精神の安らぎ
になっていたのではないかと思われるのである。


Ⅳ 「水涕」の句考

     自嘲

   水涕や鼻の先だけ暮れ残る

 いよいよ「水涕」の句の考察に入りたいと思う。

◇成立時期

 まずこの句の成立時期であるが、実は、これがはっきりしていないのである。

 • 水洟や鼻の先だけ暮れ残る   大14
   (村山古郷篇『芥川龍之介句集 我鬼全句』、「冬」の「水洟」の項に記載)

 
 • 水涕や鼻の先だけ暮れ残る
   (加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』、「大正15・昭和元年」の項に記載)

 
 • 水涕や鼻の先だけ暮れ殘る
   (『澄江堂句集』…77 句中17 句目に記載)


 
 上に挙げたように、句集によって制作時期が異なっている。ただ、ほぼ制作順に
んでいる『澄江堂句集』の中で、この句は77 句中17 句目であり、前後の句の作られ
た年代から、大正10 年頃には出来ていたのではないかと思われるのである。芥川が亡
くなったのは昭和2年の7月、ではなぜこの句が辞世の句ともいうべき句であるのか。
そのあたりのことを山本健吉が『定本 現代俳句』に書いているので、引用する。


   
   七月二十四日の午前一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の
  短冊を渡して言った。「伯母さん、これをあしたの朝下島さんに渡してください。
  先生が来た時、僕がまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずに
  いて、そのまままだねているからと言ってわたしてください」。これが彼の最後
  言葉となった。「下島さん」とは主治医下島勲であり、乞食俳人井月(せいげつ)
  を世に紹介した人である。この後、彼はヴェロナールおよびジャールの致死量を
  仰いで寝たのである。短冊には「自嘲」と前書してこの句が書かれてあった。


           〈山本健吉『定本 現代俳句』(平10・4、角川選書、角川新書版『現代俳句 上巻』昭26・6)〉


 
 たしかに、かなり以前に詠まれた句であり、この句を辞世の句とするのはおかしい
という説もあるのであるが、死の直前に短冊に記して託したということから、私は、
やはり芥川自身が、この句を辞世の句として選んだのだということが出来ると思う。


◇句釈

  この句の解釈であるが、まず二つほど句釈を紹介する。俳人中村草田男と、山本
 健吉は、次のように解釈している。

   私はこの句こそ、彼自らによって客観化された人間芥川龍之介の一個見事な
  自画像であると思う。二階の窓ぢかい手欄に寄りかかったひとりの人の横顔が、
  都会の屋根の彼方に日の没し去った後の、真黄色な残光の光を背景にして、く
  っきりとシルエットになって浮かびあがっている。次第に増す寒さは夜気となって
 
  迫ってくるが、室内は灯ともらず、窓辺の人は不動の儘である。隆い鼻の先に唯
  たか一点、生き物のように宿っている水洟だけが、遠くからの黄色い残光を透し
  て、いよいよ瞭然(はっきり)と存在をきわだたせている。/芥川龍之介には、比較
  的初期の作品に、既に次のような題名を附せられたものがあったことを思い出さ
  ずには居られない。/「孤独地獄」
 
 
                              〈中村草田男「俳人としての芥川龍之介」(昭17・7、『芥川龍之介研究』)


   
   「僕も亦人間獣の一匹である」(或旧友へ送る手記)と言った彼は、顔の中の
  鼻の部分に動物的なものの名残を意識することがたびたびあったかもしれぬ。
  しかも次第に「動物力を失っている」(同)自分を意識した彼にとって、鼻はただ
  一つ取り残されたものという感じがつきまとっていたかもしれぬ。鼻一つ「暮れ
  
  残」っているという気持ちである。水涕を点じた鼻の先だけが光って暮れ残って
  いるという意識は、だからまさに「自嘲」そのものである。鼻だけが動物のごと
  生きて水涕を垂らしているという不気味な自画像を描き出したのである。鼻に
  託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生
  涯の句の絶唱と言うべきであろう。

                                       〈山本健吉『定本 現代俳句』(前掲)〉


 
 山本健吉は「鼻」を「動物力」の象徴と捉えているものの、中村、山本両氏に共通
しているのは、水洟を垂らした具体的な自画像を描き出している点である。

◇私見

 さて、それでは私はどう考えるかということであるが、四つの観点からこの句にア
プローチしてみたいと思う。

 1. 措辞の問題

  
  *切字の「や」の問題

    俳人は助詞一字にもこだわるが、芥川もそうだったことが、句集をみると
   よくわかる。この句も、「水涕の鼻の先だけ暮れ残る」とたたみかけるよう
   にもていくことも出来たわけであるから、したがって、やはり芥川が「や」
   で切ったということの意味は大きいのではないだろうか。

  
  *「洟」と「涕」の漢字の問題

    村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』では、この句は「水洟や」と
   なっており、岩波文庫の加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』と『澄江堂句集』
   では、「水涕や」となっている。果たしてこの違いに、どのような意味があ
   るのだろうか。『大漢和辞典』によると、「洟」は ❶はなしる。洟液。❷な
   みだ。一方「涕」は❶なみだ。❷なく。❸はなしる。となっている。

 「や」で切っているということ、そしてこの漢字の選び方から考えても、芥川は、
水洟を垂らした具体的な人物像を描き出そうとしたのではなく、「水涕」というの 
は、苦い自嘲の思いの象徴なのではないか、また漢字の「洟」を「涕」と改めたの
も、具体的な「鼻水」から離れたかったためではないのかと思えてくる。そしてさ
らに、「涙」ということも響かせたかったのではないだろうか。



 
 2. 「日暮れ」とは


  次に「暮れ残る」という「日暮れ」のイメージについて考えてみたいと思う。
くなる年に書かれた『或阿呆の一生」からの引用である。

    彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の
   面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやう
   に薄暗かった。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼
   の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかってゐた。)不相変いろいろの本を
   読みつヾけた。
                                      (四十六段「譃」より)(傍線は引用者)
                      〈芥川龍之介「或阿呆の一生」(『改造』昭2・10、改造社、全集第十六巻)〉

  ここから読み取れるのは、芥川にとって「日の暮」とは、「人生の日暮れ」
 のみならず、「精神の日暮れ」を意味していたのではないかということである。


 
 3. 季語の問題


  三つ目は季語の問題である。というのも「水涕」は「冬」の季語、芥川が亡く 
 なったのは七月。はたして芥川は季語をどのように捉えていたのだろうか。彼は
 次のように書いている。

   
    発句は十七音を原則としてゐる。十七音以外のものを発句と呼ぶのは
  ―或いは新傾向の句と呼ぶのは短詩と呼ぶのの勝れるに若かない。[…]
  発句を発句たらめるものもやはり発句と云ふ形式、̶即ち十七音にある訣
  である。

   発句は必しも季題を要しない。今日季題と呼ばれるものは玉葱、天の川、
  クリスマス、薔薇、蛙、ブランコ、汗、̶いろいろのものを含んでゐる。従つて
  季題のない発句を作ることは事実上反 つて容易ではない。しかし容易では
  ないにもせよ、森羅万象を季題としない限り、季題のない発句も出来る筈で
  ある。

                      〈芥川龍之介「発句私見」(大15・7、『ホトトギス』初出、全集第十三巻)〉

  ここから、芥川は五・七・五の韻律には非常にこだわっていたが、季語に関して
 はゆるやかに考えていたことがわかる。したがってこの場合、「水涕」は季語と
 して機能しているのではなく、「作者の心理状態」、つまり「日暮れ」のところ
 でもみてきたように、「鬱々とした精神の日暮れ」を象徴しているのではないだ
 ろうか。


 
 4. 「暮れ残る」とは


  最後に、さてそれではなにが「暮れ残った」のかという問題が残る。素直に句
 を読めば、暮れ残ったのは「鼻の先」である。彼の小説「鼻」では、鼻は「自尊
 心」の象徴として使われているが、亡くなる年に書いた「或阿呆の一生」の四十
 九段の「剥製の白鳥」にも注目してみたい。

    
    彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。が、それは彼自
  身には存外容易に出来なかつた。

    彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白
  鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根
  さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感
  じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来を
  たつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

                                           (四十九段「剥製の白鳥」より)

  ここにも「日の暮」が出てくるが、登場する「剥製の白鳥」が、まさに彼自身
 姿を投影したものだとすると、暮れ残ったものとは何か。それは、ぼろぼろになっ
 て、それでも頸を挙げて立っている「白鳥の挙げた頸」ではないのか。そして、こ
 の「白鳥の挙げた頸」、これこそが、「水涕」の句における「暮れ残った鼻の先」
 に当たるのではないだろうか。
  つまり、肉体的にも精神的にもぼろぼろになった彼の、けれど最後に残っている、
 「芸術家としての矜恃」とでもいったようなものではないかと考えるのである。


Ⅴ おわりに


 
 最後に、芥川が何故この「水涕」の句を辞世の句として選んだのか、ということに
ついて考えてみたい。
 Ⅳでみてきたように、自死を覚悟した、彼自身の心境を表すのに最もふさわしい句
であったということ、もちろんこれは大きな理由のひとつであろうが、私はそれとは
別の、彼がこの句にこだわった理由があるのではないかと考えるのである。
 それは、芥川は、「鼻」の句で終わるということを強く意識していたのではないか
いうことである。彼の小説「鼻」の主人公である「禅智内供(ぜんちないぐ)」の
鼻は、長かった鼻が一度は短くなるものの、最後にはまたもとの長い鼻にもどって終
わる。他に、「杜子春」あるいは「蜘蛛の糸」などの作品も、起承転結の「結」にお
いて、「起」の状態にもどって終わるのである。つまり、芥川の中には「永劫回帰」
というか、「はじめに還る」という意識が強くあったのではないかということである。

 したがって、小説「鼻」で文壇にデビューした彼は、その生をとざすにあたって、
 
「鼻」の句で終わりたかった、もう少し言えば「鼻」の句でなければならなかったの
はないかということである。そしてさらに言えば、小説『鼻』で代表される、彼の
品そのものが「暮れ残った」といえるのではないだろうか。



【参考文献】(句集を除く)
•『芥川龍之介全集』全24 巻(平7・11~平10・3、岩波書店)
• 芥川文〈述〉・中野妙子〈記〉『追想 芥川龍之介』(昭50・2、筑摩書房)
• 山本健吉『定本 現代俳句』(平10・4、角川選書)
•『中村草田男全集』(昭60・7、みすず書房)





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4 件のコメント:

  1. 素晴らしい解説だと思いました。感謝です。

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  2. 匿名様

    コメントいただきありがとうございます。
    こちらは第2回イベントのときの論考です。
    このあとも休むことなく奇数月第2土曜日に様々な企画と句会を行っております。
    是非ともご高覧、またお近くにお出での節はお立ち寄りくださいませ。

    返信削除
  3. 芥川の辞世の句と言われるこの句の解釈がどう考えてもできませんでした。ここまで深い読みができることに敬服いたします。やっと私なりに納得できた感じがしています。ありがとうございました。

    返信削除
  4. コメントを頂きありがとうございます。
    古い記事ですがお目にとめていただき感謝です。

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