2012年10月10日水曜日

第3回itakトークショー『俳句って面白い!』 ①籬 朱子編




第3回「itak」トークショー




 2012年9月8日・道立文学館


 第3回itakは9月8日、札幌の道立文学館(中央区中島公園)で開催。第1部のイベントとして俳人、歌人によるトークショーを行いました。五十嵐秀彦を司会に、高畠葉子、籬朱子の女性俳人2人と歌人の山田航がそれぞれ好きな句を3句持ち寄り、その作品への思いを語りました。3人の選んだ句と講評を紹介します(敬称略)。





① 籬 朱子
 
 ●水底を見てきた貌(かお)の小鴨かな(丈草)
 芭蕉七部集の五番目の撰集「猿蓑(さるみの)」の中に入っている句です。内藤丈草は今から350年前、江戸前期に生まれた人です。私はバードウオッチングが趣味なのですが、例えばカワセミが獲物を捕った時は得意そうな、失敗した時は本当に残念そうな表情を見せるんですね。野鳥は結構表情が豊かです。それにしても丈草はよく観察しているなぁと思います。「水底を見てきた貌」という把握がすばらしいと思います。巧みのないさらりとした表現ですが、水から出てきた鴨の表情を捉えてこうは言えない。平易だけれど独特の視点で、何気ない鴨の様子を印象鮮明な句にしています。
丈草は尾張犬山藩士でしたが27歳で出家。28歳で芭蕉に弟子入りしました。29歳の時に「猿蓑」の跋文(ばつぶん)を任されています。「猿蓑」は芭蕉一門の最高傑作の撰集と言われています。その跋文を書いたのが、山田航さんと同じ年齢でした。蕉門にはベテランが数多くいる中で2年目の弟子に書かせたことから、芭蕉がいかに丈草を買っていたか分かります。
今日まで「猿蓑」は蕉門のベストセレクションと評価されていますが、当時(元禄2年から4年=1689~91年=)も一門の達成を世に問う意気込みで編集が進められており、弟子たちはこぞって句を出しました。その中でも芭蕉の求める句の方向の一つが、丈草の句だったのではないかと思います。

それを思わせる文章があります。「去来抄」によると芭蕉が亡くなる直前に、弟子たちが看病に集まりました。芭蕉は「私が亡くなったつもりで、句会でもやりなさい。」と言ってその場で句会になった。先生に見てもらうのも最後だからと弟子たちは一生懸命に句を作りました。その際、芭蕉が「できている。」といったのが丈草の句だけでした。
芭蕉は最終的には「軽み」を目指しました。完成途上でしたが「軽み」への方向性を丈草の句が持っていたのではないかと思います。

 話しはそれますが、ちょうどこの句が載った「E.J.キーツの俳句絵本 春の日や 庭に雀の砂あひて」(偕成社) という絵本があります。見ていただきたいのですが、なにか違和感があると思いませんか。私はこれを見て、びっくりしました。丈草は「小鴨かな」と詠んでいるけど、ここに描いてある絵は明らかに「あひる」なのです。幅広い年齢を対象にした真面目な絵本で作者は著名な画家なのに、どうしてこうなったのでしょう。
英訳を見ると小鴨は「リトル ダック little duck」と書いてあります。確かにリトル ダックだと「小さな あひる」になりますワイルド ダックなら「鴨」になったのでしょう。絵本作家は翻訳された英文の「little duck」をその通りに描いたのだと思います。この絵本(テキスト)には日本人の訳者がいますが、それでも異なる言語に俳句を置き換える時には、こういうことが起きるのですね。丈草がこの元気なあひるを見たらどう思うのでしょう。丈草は穏やかでユーモアのある人柄と伝えられているので、面白いコメントが聞けるのかもしれません。

            


 
 夕紅葉谷残虹の消えかかる(一茶)

小林一茶の句です。一茶は今から約250年前に信濃町(長野県)柏原に生まれました。黒姫高原と呼ばれる一帯。冬は雪深い所ですが、夏は澄んだ空気と陽光に恵まれています。一茶は15才までの幼少期をそこで過ごしています。
この句には「夕紅葉」「残虹」という季語が二つ入っています。夕紅葉は秋で、残虹は夏。夏の終わりから秋にかけての光景でしょう。夕紅葉に消えかかっている虹が見える。色彩と光のコラボレーションの句で、繊細な美しさと共にその場に立って一緒に見ているような懐かしさを感じます。なので、この句の舞台は一茶の故郷、黒姫高原の日暮れかもしれません。あるいは、旅から旅を日常としていた巡回俳諧師一茶が、通りすがりに出会った景色だったのかもしれない。何れにしても、その景を詠まずにはいられなかった、一茶の詩人としての純粋な資質を感じます。

さらにこの句は「夕紅葉」「谷」「残虹」という名詞を連ねて、「消えかかる」という動詞一つで支える構造になっており、あまり見たことのない面白い作りの句です。なぜ一茶がこのような構造の句を詠んだのかというと、一茶の師系に手がかりがあるように思います。
一茶は葛飾派の三世の素丸という人の執筆(宗匠の手助けをした書記役)をしていました。葛飾派の創設者(一世)は山口素堂。松尾芭蕉の親友であった人です。素堂は漢学に精通した人で漢文調の句を得意としていました。今日まで良く知られた素堂の句
「目には青葉山ほととぎす初鰹」
も名詞を連ねた作りになっています。一茶は直系の師、素堂から良く学んでいるのです。
今日一茶の句と言えば
「やれ打つな蝿が手を摺り足をする」
「雀の子そこのけそこのけ御馬が通る」
「痩せ蛙まけるな一茶是ニ有リ」
といった句が有名ですが、この句のような色彩と光りの恩寵を感じさせる句も残しています。自らを「景色の罪人」と呼んだ一茶ですが、この様に澄んだ繊細な句に出会うと
一茶の感性の源に触れる思いがします。

  凧(いかのぼり)きのふの空の有りどころ(蕪村)

この句の作者、与謝蕪村は今から約300年前に摂津国(大阪市)に生まれました。
江戸時代中期の俳人です。若い頃は江戸で過ごし、東国を放浪した後京都に定住。画家としても知られています。
凧は新年、春の季語。いま凧の揚がっている空は今日の空。きのふも同じように凧は揚がっていたが、きのふの空は何処へいったのだろう、という内容の句です。
蕪村は遙かな凧を見ながら景色の背後にひろがる、永遠の時間に思いを馳せています。この句のように蕪村には、眼前の景色を見ながら過ぎ去った昔を同時に見ている様な句が幾つかあります。

目の前に昔を見する時雨かな  (芭蕉の忌日 時雨忌に詠んだ句)
白梅や誰が昔より垣の外
遅き日のつもりて遠き昔かな

きのふ、昔という言葉が度々句に現れてもいます。そういう蕪村を萩原朔太郎は“郷愁の詩人”と呼びました。
私は蕪村を仮に“イエスタデイの詩人”と呼んでみたいと思います。
そして、“Yesterday”というと、どうしてもビートルズの曲を思い出します。
ポール マッカートニーが作ったあの曲です。その歌詞の中に
“now I long for yesterday”  という歌詞があります。
 
 longという動詞は古英語から来た言葉で「遠いものまたは容易に入手できないものを心から求める」という意味があります。蕪村の句に近い雰囲気のある動詞の様にも思います。ただ、longをこの歌詞の意味する様に「失われたもの遠いものを深く強く欲する」と訳すと、蕪村の句にはその強さが希薄かもしれません。
longがやや肉食系の意味を持つとすると、蕪村の句はより淡く草食系の詩を奏でています。それを無理に英訳すと丈草の句のように、小鴨がアヒルになってしまう事態が生じるかもしれません。
先ほどの絵本はニューヨークの著名な画家によって描かれていますが、俳句は最短の詩形として、広く世界に伝わっているので、あのような絵本をテキストとして英語圏の子供達が俳句を詠むことが現実になっています。
絵本の中に丈草と一茶は何句か紹介されていました。江戸時代の句でも翻訳が可能で外国語で共感して貰える素地があるのだと思います。一方日本語の働きに深く依存する蕪村の俳句は、時間軸を過去から未来へ直線で進む英語への翻訳は難しいと言われています。
それだけに蕪村の句は、日本語の奥深さと豊かさを湛えた句と言えるのだと思います。

 



☆抄録:久才秀樹(きゅうさい・ひでき) 北舟句会

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