2013年5月20日月曜日

俳句集団【itak】第7回句会評(橋本喜夫)

 
俳句集団【itak】第7回句会評
 
2013年5月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
5月11日、天候は相変わらず恵まれず寒くて雨模様であったが、イタックは無事満1周年を迎えた。どうなるか、続くのかと危ぶまれたが今のところ盛況に継続されている。まあ、こういうイベントというかムーブメントは3年続けば成功と言えるのではないか。3年続いた段階で次への歩みをもう一度考えればよいのであろう。などととても冷静に、対岸の火事のように見ている私であるが、幹事であることに変わりはなく、普段仕事をしない代わりにこの欄への寄稿を義務的に行うこととする。句会前の久保田哲子氏の話の中で出てきたが、昔の主宰というか俳句の師というのはとても怖くて会話の一言一言に気を使ったものである。それは若者にとっても、私たち初老のものにとってもとてもうざったいものなのだが、なにか懐かしく、とても大事なもののような気がしたのは私だけだろうか。私は職業的にもともと、結構封建的な師弟関係の中で育ってきたものだから、なおさらなのかも知れない。若者にとってはそんな古臭い、封建的なものから新しい、建設的なものは生まれないと思うかもしれないが、青臭い、甘ったれな烏合の衆からも何も生まれないのである。さて東京出張前の昼休みの間に終わらせるためにさくっと行きます。相変わらず失礼、誤読あるかもしれませんがご寛恕を。

 茹ですぎたパスタ残りて春愁い 福井たんぽぽ

春愁いの句は当然のごとく、どうでもいいことを取り合わせて、ライトバースな感情がこの季語に使うと成功する。そういう意味で「茹ですぎたパスタが残ってしまった」現実と春愁との取り合わせは成功例だと思う。「茹ですぎた」が口語的で、「残りて」が散文的で、説明的なのでここをどちらかに統一するのがいいと思われる。「パスタが残る」にするか、文語表現で統一するなら「茹ですぎのパスタ残れる」でもいいかもしれないが、ここは本当のこというと好みの問題だが、実際のコンクールなどではやはり欠点として指摘を受ける可能性がある。でもこのライトバースな発想は私は好きだ。そしてこういうのはライトバースと言わないという指摘は甘んじて受けるが、あくまでも私の定義である。

 骨なしの魚を齧るこどもの日  大原智也

予選で私はこの句に印をつけた。発想もよいし、微量の毒もいい。とてもよくわかる句だ。よい川柳と俳句は区別がつけがたいし、区別する必要もないと思う。しかし、私はこの理知的な発想に川柳を感じた。だから最終的には採れなかった(採る句数が限られているのが本当のところだが)。つまり諧謔と川柳のうがちとは鑑別つけずらいが、やはり違うのだと思う。そしてにわかにその違いの定義をできないので、採れなかった。佳い句であることは間違いない。ただ俳諧であれば、「齧る」とはしないと思う。たとえば「選ぶ」とか「焼いて」とか「皿に」とか少しずらすのではないだろうか(風刺が如実にならないように)。

 血のめぐる音さらさらと明易し  内平あとり

夏の明け方、しらじら明るくなるころ、眼をつぶっていると、己の血がめぐっているのを感じた。あくまでも作者の独善の感性であろうが。それは「さらさら」だった。何となくすっきり晴れた朝なのであろう。明易しへの飛ばし方がとてもうまいと思う。これは師系にもよると思うのだが、藤田湘子一門は季語の飛ばし方がうまいと思う。そしてそれは私の独善的な考えかもしれないことは付け加えておく。私ならきっともっと近い季語使ったと思う、「爽やかな感じの春の季語」を選択しただろう。

 インデイアンペーパー匂ふ緑雨かな 五十嵐秀彦

また「天」に採ってしまった。私の体調が悪かったのかもしれない。インデイアンペーパーという言葉を読んでまず、「東インド会社」「シルクロード」など思った。もともとは中国の唐紙など薄葉上質紙を模してイギリスで作ったものだが、その名の通り、その原料はインドの木綿、亜麻などをイギリスで安く仕入れて作ったに違いないのだ。聖書、辞書などを開けた時の匂いそれは紙ではなくて、印刷のインクの匂いも混ざっているのであろうが、その気持ちの良い匂いを緑雨の中で感じているのだ。本好きにとっては至福の時であろう。緑雨への展開がうまいと思った。

 さらさらと水音たてて種袋  籬 朱子

これは作者が分かった句だった。作者が誰であろうとよい句はよい句である。俳句には罪がない。種袋をふったときの微かなそして気持ちのいい音、そして命のひしめく音でもある。それを水音としたことで詩が生まれたのである。俳句を何年もやってると手癖みたいのがつく。私の句に「柩」「死」「葬」などの縁起の悪い語が多いのと同じで、「さらさら」は作者に多いかもしれない。

 春草の地球を蹴って逆上がり  恵本俊文

わかりやすく、春の草の息吹が伝わる。しかも地球という大きな言葉を使うとたいてい失敗するのだが、この句は無理なく嵌っている。
「逆上がり」という語が名詞でありながら、動詞からできているので何かすわりが悪く、全体にのんべんだらりと、切れがない感じで読めてしまった。ここは「春草や」で切ってはどうか。「の」 もきちんとした切れ字なのだが、この辺は好き嫌いだ。私の結社なら「の」で軽く切れるし、藤田湘子なら「や」をおすすめしたに違いない。

 豆飯やキライとはじき主役なし  中道恵子

発想はわかりやすいし、面白い。おそらく沢山選が集まらなかったのは説明しすぎてしまったから。 わかりすぎてしまったのだ。豆飯なのに嫌いだからと豆をまめにはじいたら、主役がなくなったしまった というわけだ。ここは嫌いとまで言わず、たとえば 「 豆飯の豆をはじいてしまひけり」、とか 「豆飯をはじきて主役なかりけり」 でもわかるのでは と思う。または「豆飯の主役を嫌ふ女かな」 などと自己を客観的に表現しても面白いかもしれない。あまりつべこべいうと嫌われるのでこのあたりで退散する。

 0°までブランコ漕いで鳥になる  早川純子

人気をあつめた句のひとつである。問題は0°が本当にわかるかでしょう。当然設計の仕事や、理系ならわかるんでしょうが..私なんかこの短時間の選句では温度の0と思い、くそ寒いなかで一生懸命ブランコ漕いでいる女の子を想像してしまった。そして凍死して、鳥になったんだなと。 何言ってんだと怒っている作者の顔が浮かぶが、平凡になってしまうが、私ならば「水平に」 とか 「中空へ」 とか 「中天に」 とかでごまかすけどね。ここは0°の方が作者の個性でるよね、共感は得られないけど。殺されないうちに次へ進もう。

 春耕や人に手のひら足のひら  田口美千代

体の一部分をクローズアップして労働の素晴らしさ、「春耕」の素晴らしさを表現する方法は確かに前例があるとは思う。でも私は足の裏にせずに、「足のひら」にしたところがこの句の佳さだと思う。もちろん春耕の季語の斡旋も秀逸だが。足の裏は獣や動物でもあるが、「足のひら」はおそらく霊長類しかないから。おそらく前足の裏が進化してゆき人間の手のひらになり、春耕という文明というかカルチャーが生まれたわけだし。そういう意味で「足のひら」という表現は絶対フックのある言葉だ。

 山椒魚(はんざき)や森は原始の香をなせり
                戸田幸四郎

雰囲気の佳い句である。はんざきの住んでいる川おそらく、清水であろうし、汚れてはいないだろう。そしてつきすぎとも思える「原始」ということばだが、この言葉を山椒魚に使用すればつき過ぎであろうが、「森の香」にうまいこと飛ばしている。ここが秀逸である。ただし、あまりうるさいこと言いたくないが、「二段切れ」になるのでここは 「森は原始の香をなせる 」と止めて欲しかった。

 どこにあるいるかのふぐり虎が雨  室谷安早子

この句も凄い。中七までのフレーズが十分、インパクトがあり、フックがあるのだが、「虎が雨」への飛ばし方が凄い。私の所属する北海道の結社なら飛ばしすぎで意味不明とそしられるが、私はこれでいいと思う。この???感を読者は楽しめばいいのだ。考えすぎかもしれんが、「虎が雨」というのは曽我十郎が死に、その死を悲しんだ愛人遊女虎御前の泪が雨となるという季語であるが、もしかして大化の改新の「蘇我入鹿」まで時代がさかのぼったのであろうか?だとすると恐ろしく飛んでいる。作者の所属結社を失念してしまったが、「鷹」の飛ばし方だ。

 春寒やフラスコの燗酒旨し  深澤春代

昔の学校は規律がいまほどうるさくなく、職員室や理科室で先生同士、酒を飲みかわすこともあった。そんななごやかで、男ぶりな景を想像した。たとえば昔の学校なら宿直室というのもあった。そこでの景でもよい。中七、座五の句またがりも面白い味を出している。フラスコで燗酒をしているのも諧謔である。いまなら、先生は始末書を書かねばならないだろう。

 反古焚きて残雪の端焦がしけり  草刈勢以子

人気のあった句である。反古、残雪、端焦がすといった素材がよかったのであろう。ゴミを焚いて、残雪の端を焦がすという表現の面白さもあったろう。しかし、想像できる景はあまり美しくない感じもする。反古を恋文、艶文のたぐいで書いてはまた捨てるものと仮定すれば、残雪(心残りを想像する)の端を焦がすという表現が生きてくるように思う。いずれにしても素材のみ提出してあとは読書に想像させるという俳句である。この方法もありでしょう。

 フリースロー何度もはずす花粉症  大原智也

中七までの措辞、そして「花粉症」への飛ばし方がすべての句。私は中七までの措辞は俳句的に悪くないと思うし、展開を期待させる措辞だ。季語の斡旋としては「花粉症」は決して成功していない気がする。鼻がむずむずして、くしゃみが出て集中力がわかずにフリースローをはずしたというふうにとられかねない。つまり予定調和に感じてしまう。ここは「万愚節」や、「植物の季語」などもってきて飛ばした方が良いと思う。

 若人や初夏の石狩へペダル踏む  田中悠貴

若者がツーリングのように石狩へ向かってペダルを漕いでいる。その詠んでいる景はいかにも、初夏であり、気持ちがよい。やはりいくら気持ち良い内容でも中八だとまずいであろう。日本中の主宰が一番嫌うのが中八であることを知らねばならない。俳句は17文字の短詩である以上に定型詩である。定型の袋に読みたい内容をきちんと詰め込んでこそ意義がある。リゴリズム*1の中で自由を謳歌すればいいのである。初夏という季語だけで若人感がでるのではないか?たとえば「 初夏や石狩の地へペダル踏む 」でもいいのでは。俳句甲子園勝つためには詩だけでは勝てない。リゴリズムの中でどれだけ遊べるかが勝負だ。

 風光る工事現場のコーヒー缶  久才透子

これも惜しい感じがする。工事現場という決して美しくない景色の中で風光るという感覚を詠むことはとてもいいのだが、さいごのコーヒー缶がどうも閉まらないのである。もちろん黒光りする缶が景色としては風光るに合うのであるが、読んだ感じ、間延びして言葉の音調としてあまりよくない気がする。たとえば「硝子壜」、「プラボトル」、飲み物と関係なければ意外性で「車椅子」、「乳母車」だってよいのだ。場面の切り取りをもう一工夫欲しい。もちろん実景であることはわかるのだが。リアリズムだけだと詩は生まれない。

 うららかや骨抜かれたる日章旗  岩本 碇

これはよい、そして微量の毒がある。社会性俳句のようでもある。だらりとはためかない日章旗を骨抜きと表現した。どうしても骨抜き国際的な弱さ改憲、護憲など色んな意味で政治色が強くなるように感じた。やはりよき川柳と諧謔との羊皮紙一枚の微妙な違いである。とはいえ、「うららかや」で切れているし、俳句の佳さも兼ね備えた川柳的テーマ性をもった俳句といえよう。

 初夏や小瓶にうつす化粧水  内平あとり

実際の句会でもいただいた。「はつなつ」という季語のよろしさ。化粧水を小瓶にうつすというつましさ。化粧水をうつす美しい指先が見えるようですずしい季感もある。やはり初夏にちょうどいい素材といえるかもしれない。季語がそれだけでよろしい、一級季語であれば、この句のように取り合わせとして飛びすぎなくてもいいと思われる。飛び過ぎはかえって、季語の佳さを損なう場合もある。

 風車もつて飛行機雲仰ぐ  久保田哲子

「風車」の季語としては珍しい詠み方である。回る風車を詠むことが多く、この句のような風車そのものを詠んでいない句は珍しい。つまりこの景の主人公(語り手)は風車をただもって、飛行機雲を仰いでいる。つまり、風車ではなく飛行機雲に仕事をさせている俳句である。この季語としては大景を詠んでいて、面白い処理の仕方である。

 蕗の薹大地は痒くないのかしら  久才秀樹

蕗の薹のさま、それを囲む大地の方へ眼を向け、「痒くないのかしら」と詠む諧謔が成功した。あえて座六にしたのが、面白みをむしろだしているし、成功している。破調感がこの句のコアでもある。内容的には今はやりの櫂未知子のいう「おばか俳句」ではあるが、この「無意味性」を私は愛する。

 真っ白なブラウスまっすぐ海へ  熊谷陽一

この破調感も面白い。ただし句の内容から言っても十分アトラクテイブな内容なのでここは破調感を出さずとも俳句として成立したのではないか。つまり「真っ白なブラウスまっすぐに海へ」でもよいと思ったのだ。みなさんはどう思ったであろうか?作者は「頭の中で白い夏野になつてゐる」が心に在ったのかもしれないが、無季であることも十分に挑戦的な句だ。ただし十分に夏の海を連想させる季感はある。

 花篝ひたすら脳が膨張す  福井たんぽぽ

夜の怪しい闇のなかで、篝火の中へ花が散り込む景はたしかに催眠術にかかったように妖艶な雰囲気である。たとえば燃え立つ火を見つめると、網膜にうつる景として、そのまま連結する脳が膨張する、沸騰する感覚を詠んでいるのであろう。いずれにしても思い切った感覚の句ではある。そして「花篝」が決して荒唐無稽に浮いていないと思う。





さて今回もこの辺で退散する。好きなこと言ってごめんなさい。せっかくの句に文句言われるのが嫌な方はどうか編集部へ苦情をお願いします。私を楽にさせてください。それではまた。
 
 
忙中有閑苦中有楽!7月もよろしくお願いいたします(^^by事務局(J)

*1 リゴリズム
厳粛主義・厳格主義。カントは、道徳説において善と悪とを峻別する態度をリゴリズムと呼び、その中間を認める妥協的態度を放任主義と名づけて対比させた。
 
 


2 件のコメント:

  1. 句評ありがとうございます。「俳句という形式は強靭で、壊そうとしても簡単には壊れませんよ。」と、ご教示されたと拝察しました。みすかれましたか。今後ともよろしくお願いいたします。

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    1. 熊谷陽一さま
      コメントありがとうございました。句会評読んでくれてありがたいです。
      この句には私が初期にあこがれた新興俳句系の匂いを感じました。ようするにイメージだけで迫ってくるタイプで心に残ります。俳句は輪郭がはっきりしたのもいいですが、このような点描主義というのでしょうか。このような句も魅力があり、十七文字なのでかえって効果的なのだと思います。橋本喜夫拝

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