2013年11月25日月曜日

五十嵐秀彦句集『無量』書評 ~山田 航~


五十嵐秀彦句集『無量』書評
山田 航
 

・・・冬と無常と断絶と・・・

 

 冬の句が多い句集だ。そして無常感と諦念に満ちている。著者は札幌市在住、一九五六年生まれの俳人。俳誌「藍生」と「雪華」に所属している。「雪華」の同人となった一九九七年以降の、十五年間の作品を収録した第一句集が本書である。序文は黒田杏子、跋文は深谷雄大、帯文は吉田類が寄せている。

 北海道という環境が冬の句を多くしているというのは、確かにあるだろう。しかしこの句集には「寒さ」だけではなく「苦さ」もある。敗北の季節としての冬が描かれ続けている。〈氷下魚裂くつまらぬ顔は生まれつき〉〈氷柱折るときなにものか折られけり〉〈指切りをするたび失せし雪をんな〉〈沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて〉いずれも果たせなかったことへの無念に満ちた句だ。かつて何か大きな夢を諦め、断念した。その思いが、彼の句に「冬」を呼び寄せているのかもしれない。

 句集のタイトルである「無量」は仏教用語から来ており、無限の意である。この他にも仏教関係の言葉を用いた句が散見される。〈一代の咎あれば言へ沙羅の花〉〈伝行基観音冥き秋時雨〉〈眼球の無量遊行の十三夜〉〈半跏坐のままや冬日を身に入るる〉しかし著者は別に仏教哲学に深い知識を持っているわけではないという。しかし、冬の句の詠み方にとりわけあふれている諦念が、仏教の無常観と親和性があるのは確かである。自らの無念や敗残の気持ちも置き去りにして、時間はひたすら過ぎ去ってゆき、すべてを無へと変えてゆく。そのはかなさへの共鳴が、句集全体の通奏低音なのだろう。

 著者の文学体験の原点は寺山修司である。しかし北海道に生まれ育った著者には、寺山がその世界の背後に抱えていた「東北」という巨大な体系がない。『田園に死す』などで描かれた前近代的なムラ社会の奇怪さは、いわば「日本」そのものの原始的な姿を浮き彫りにしようという試みだったが、北海道ではその深淵へは近付けない。結果として、この句集は「断絶」の気配に満ちている。ページをめくったらいきなり白紙があらわれて終わりとなってもおかしくないくらい、一句一句が屹立し、世界を断ち切ろうとする。きっとそれが著者なりの、北海道という世界に対する回答なのだ。〈蝶有罪あるいは不在雨あがる〉〈わが視野を石狩と呼ぶ大暑かな〉北海道の向こう側には、ひたすら風の吹く荒野しかない。しかしそれを引き受けることが、俳句という詩型の本質である「断絶」に、一層の強さを与えている。
 
 
(2013年9月5日 北海道新聞 夕刊に掲載)


☆山田 航(やまだ・わたる 俳句集団【itak】幹事 歌人)

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