2014年3月22日土曜日

照井 翠  句集『龍宮』 一句鑑賞 ~青山 酔鳴~


句集『龍宮』の一句鑑賞

青山 酔鳴


このときわたしは古いビルのエレベータの中にいた。徹夜明けでめまいがしていた。建築士事務所の登録更新に行った協会の事務室の中では妙な笑いがさんざめいていた。わたしの書類に不備でもあったのだろうか。それにしても妙な。

「なにか間違っている部分がありますか?」 「いいえなにも」

目をあげると額が揺れていた。ああ、地震なのか。どうしたらいいのか判断できなくて笑っているのだろう。ここは6階である。でも今、古いエレベータは問題なく動いていた。

「どうしましょう」 「隣の建築士会から誰も出てこないし大丈夫なんじゃないか」

書類を提出し、テレビもラジオもない、協会を後にする。エレベーターで1階に下りる。まだなにも気づいてはいなかった。駅について改札にあるテレビの前でだれもが一様に言葉を失くしているのを見て、初めてこの出来事を知ったのだった。



 牡丹の死の始まりの蕾かな         照井 翠


これから咲こうとする蕾に対する「死の始まり」という措辞。落ちてもまた翌年咲き誇る、木本性の牡丹に本来、死という概念はそぐわない。普通の句集だったら気の利いた表現のひとつとして受け取っただろうと思う。しかしこれは「龍宮」という句集の中に置かれている句なのだ。同じ遺伝子を持つ同じ花が来年も再来年も咲く牡丹の、蕾に見た「死」とは間違いなくあの日あの場所で起こったことであるだろう。圧倒的な力で取り去られてしまった数多の命。生を寿ぐ大輪の花になる蕾に与えられた新しい属性。この句の中にある、静かだけれど激しい、作者の慟哭を感じずにはいられない。そして、なにもかもがまだ片付いていないのだということを、作者も読者も改めて知らされるのである。毎年の「死の始まりの蕾」によって。


数年後わたしはまた古いビルのエレベータに乗るだろう。登録更新に行く協会の事務所には大きな変化はおそらくないに違いない。阪神の時に整備された基準法でも東北ではまるで力不足だった。我々にできることはなんなのか、3年たっても実のところ、もどかしくもはっきりしていない。わが身と生業を恥じるところでもある。

人間にとって、今ある事実と向き合って生きていくことは難儀なことで、忘れてしまいたいことはたくさんある。しかし作者はそういったものと、これからもただ真摯に向き合い続けていくのだろうと、この『龍宮』の一連の句群に感じた、わたしである。当事者の表す凄まじさの前に、ただ立ち尽す。わたしもまた真摯であらねばと、心を新たにする。


☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事 群青同人)


照井 翠 句集『龍宮』 角川書店
http://www.kadokawa.co.jp/product/321306000185/




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