2014年3月18日火曜日

俳句集団【itak】第12回句会評(橋本喜夫)


俳句集団【itak】第12回句会評

  
2014年3月8日


橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 


第12回も盛況だった。イタックのこの勢いいつまで続くのであろうか??なんて関係者が冷めた目で見てたらいけませんよね。第一部の歌人 月岡道晴氏(それにしても歌人になるための名前だ、本名だってさ・・・)の口語、文語のお話は大変わかりやすく、楽しく聴けたし、胸のつかえがとれた感もある。イタックはやはりこの第一部があってこその、第二部の句会なのであろう。と思いつつさっそく、句会評に入りたい。最近、他の機会でも書いたのだが、仁平勝氏の造語である「俳句の半喩性」についておりおり思う。つまり俳句の多くは構造上、不完全な比喩でなりたつという考えで、たとえば二物衝撃も取り合わせも遠い、近いはあるが、詠みたい主体(季語)を比喩したものととらえることができそうだ。心に残った句に簡単に触れて行く。

 

肉体もこころもやはらかし弥生     恵本俊文

 

弥生は「いやおひ」であり、草木がさかんになる意味で、そういう意味では体も心もやわらかくなるというのは、平板なつながりであり、「やはらかし」で切れているのであるが、ここまでの措辞は弥生を比喩している、あるいは半喩しているともとれる。この句の佳さは、わかりやすさ(すこしわかりやすすぎるが)と、さいごの「やわらかし」、「弥生」のY音のたたみかけだろうとわたしは思う。意味というよりは俳句の韻文性を重視した句。

 

種々の箱にみな蓋雛納む       松王かをり

 

箱という箱すべてに蓋がある。逆に言うと蓋がないと箱とは言わない。箱はものを収納するもの、納めるもの、個室を形成するものである。われわれは生まれたときはその「臍の緒」を桐箱などに保管したり、死んだときは棺桶にも収納される。それらすべてには蓋が存在する。生あるものを納めるものは箱と言わないのかもしれない。雛人形に一年の別れを告げて、蓋を閉めるとき作者はいろんなことが頭をよぎったのかもしれない。

 

大白鳥空気に触れてしまひけり     信藤詔子

 

白鳥というのははっきり言って近くでみると美しくない。なんかこすけて、汚いこともある。白だからなおさら目だつ。空気にふれるということは、酸化すること、朽ちることにもつながる。われわれは真空パックされたらある程度鮮度は保つことができる。白鳥の汚さをみたとき作者はそう感じたのかもしれない。これも取り合わせであるが、ある意味ではオオハクチョウを半喩しているともとれる。

 

洗剤が時計回りに溶けて春       鍛冶美波

 

洗濯機に見える洗剤、洗物の回転を時計回りと表現することもけっこう珍しい。時計回りで廻ることは物理的なことだが、時間的推移も感じられる言葉だ。そして溶けるということば、これも「雪が解ける」という発想につながる。したがって最後の着地は「春」しかない。季語が動かないともいえるし、やはり十五音使って春を比喩しているともいえる。音調もいいし、春という落としどころもわきまえている。

 

種蒔いて峰を下りゆく巨人かな     青山酔鳴

 

「だいだらぼっち」や八郎潟の「ハチロー」のようにここでいう、「巨人」は大いなるもの、自然の大きさを比喩したものであろう。種を蒔くという春の季語を用いているから、作者は巨人という言葉で、春の山や「春そのもの」といった自然の大きさを比喩したともとれる。

 

手違いで二玉届く春キャベツ     瀬戸優理子

 

春キャベツそのものが、明るさと、諧謔を兼ね備えている感じである。ひとつ届くはずが、二玉だったのか、キャベツそのものが手違いだったのか、わざわざ二玉と言ったところで、かえって成功した句。

 

山なりのボールやはらか山笑ふ     鈴木牛後

 

「やまなり」、「やわらか」、「やまわらう」のY音の繰り返しによるYY感。おなじく三つのことば(山、山なり、ボール)の形としてのドームが三つならぶ言葉からくる表象性。どれもうまく構成されている。惜しむらくは、山笑ふの季語にすべて順当につながる感じが平板である。

 

逃げ馬の逃げきれぬまま寒の明け    久才秀樹

 

さすがの寒もさいごに春の日射しに差しきられた感覚を詠んでいる。「逃げ馬」を使用したことも面白いがきっともっとよい季語があるであろう。比喩としての逃げ馬でなく、競馬時期に一致した季語で勝負するときっとよい句になると思う。逆に逃げ馬に逃げ切られてもいいのかもしれない。逃げ馬は逃げ切れないのが、順当だから。

 

「てぶくろ」の民話の郷やウクライナ  平 倫子

 

民話の「てぶくろ」を季語として解釈するのは難しいが、無季としても、機会詩と考えれば現在のウクライナ問題をある意味愁いをふくんで詠んでいるのがわかる。中七の「や」が、俳句として、機会詩として効いていると思う。

 

卒業が駆け下りてくる地獄坂      青山酔鳴

 

「地獄坂」が小樽の坂であると知らなくても、固有名詞がこの句では生きていると思う。夢に満ち溢れた、元気な卒業生が駆け下りてゆくその坂の名が「地獄坂」とは面白い。ちなみに私が高校三年間通った坂は「出世坂」という名であった。(自慢でなくて事実)。

 

眼鏡屋の手がこめかみに春の雪     柏田末子

 

眼鏡とか時計は俳句に成功しやすいが、時計屋や、眼鏡屋、保険屋とか屋がはいると人間が介在するせいか、失敗することが多いのだが、この句は成功例と思う。あたらしく買った眼鏡を担当者がやさしく、しなやかな指で耳にかけてくれる。そのときこめかみに眼鏡屋の手が触れる。そのときの微妙な感覚やニュアンスを春の雪で詩的に昇華されていると思う。中七まですべての措辞が「春の雪」という季語を半喩していると思う。

 

4月から消費税はお高いよ       武田慎一

 

一読笑ってしまった。印もつけてしまった。作者はあの子。私はいま「ヘタウマの句」をなるべく選句しようと思っている。俳句としてテクニックは下手でも、テクニックや俳句の俳句らしさ(俳句のいやらしさと言ってもいいか)を無視しても詠みたいことを詠む、ぐさりと心に刺さるような句だ。まさに子供らしい感覚なのだが、ヘタウマ的な要素をみせたのが、「お高いよ」である。これはなかなか出てこない措辞だと思った。

 

恋の猫尾という旗を振り立てて    松王かをり

 

恋猫のさまをまっすぐ詠んだ。まさに伴侶を得るためにときには尻尾を立てて争う。戦いにくれる日々だ。それを旗に見立てた。単なる「見立ての句」と言ってよいか。いきとしいけるもの、恥ずかしさなどは気にせずに、一本の旗を立てて生きるべき。私自身いま「旗」を立てて生きていないという自責の念。そんな気にもさせられた。恋猫をふくむ生きとし生けるものに対する慈愛の目がそこにはある。

 

おほかたは通過駅なり春浅し      恵本俊文

 

列車に乗って目的地へゆく。その一駅が問題であって、その間はすべて通過駅にすぎない。人生死という駅が終着駅ならばそのすべてが通過駅にすぎない。すばらしいフレーズだけに季語が問題である。「春浅し」が人生まだ通過点だという作者の気概みたいなものも感じられて、私は悪くない季語だと思う。

 

春隣色鉛筆で書く予定        田口三千代

 

色鉛筆で予定表に書き込む。その春めいた気分と、春隣の季語の組合わせがすばらしいために高点句である。ただ「予定」だけだと「予定表」だとわかるであろうか。もちろん、好意的読者ならわかる。好意的読者でなければ、色鉛筆で書くのはあたりまえだろうということになる。このままで好意的読者にゆだねるか、予定を「旅程」などとして具体性を持たせるか。どうにかして予定表とまで完全に17音に入れ込んで表現してしまうか。これは作者の考え次第だ。

 

かたくりの花おそらくは人嫌ひ    内平あとり

 

かたくりの花のうつむき加減を、人嫌いととるか、はずかしがりととるか、いずれにしても人嫌いとしたのが成功した原因であろう。動詞ひとつも入れずに、「おそらくは」 と入れたのが実はこの句のコアだと思う。「おそらくは」が人嫌いとかたくりの近さ加減を薄める効果がある。取り合わせというより、かたくりの花を半喩した表現とも思う。高点句であった。

 

置いてゆくはずのアルバム春ともし   籬 朱子

 

「春ともし」 の季語で春の燈のもとで、別れの準備、引っ越しの準備、新生活への準備という感覚が共有される。そこにもってきて「置いてゆくはずのアルバム」つまり、持って行くつもりはなかったが、思わず、旅荷あるいは荷物の中に入れてしまったのである。アルバムという措辞もそれを代弁している。読者をひきつける、悪く言えばひっかけるフック満載の句である、釣り針にひっかかった読書も多いのは当然である。

 

梅の香は天へ悔恨などは地へ      安藤由起

 

すーっと通り過ぎてしまいがちの句ではある。梅の香は天へ伸びて行く。ここまではよしとしよう。悔恨などは地へ、人生の来し方の悔恨はすべて地下へ葬ると考えてもよい。そう考えると処世訓じみてくるが。私は「梅」と「悔」という漢字のアナロジーを感じた作者がそのふたつの漢字を使って俳句に仕立てたと考えたい。私のような「机上派」はよくやる作り方であるが、作者は全く違う感覚で作ったかもしれない。

 

二番茶のななめにずれる眼鏡かな    久才透子

 

二番茶をすすっているご老人の眼鏡のずれを詠んでいると読んだ。この句の佳さは不可解なところ。二番茶のずれる というのはその筋で意味のある言葉なのか。二番茶の出回る時期のずれるという意なのか?なぜ眼鏡に力点をおいて「かな」という切れ字を使ったのか。ただいま季語と無関係で、詩的な言葉でない措辞に「や」「かな」をつけるやり方が方法論として確かにある。不可解さが面白い。

 

福耳と言はれ霜焼けとは言へず    田口三千代

 

霜焼けは凍瘡と言われ、樽柿のように腫れるタイプがある。耳に起これば当然、大きく腫張する。それを福耳と言われた作者(あるいは主人公)の戸惑いが面白い句として成り立った。「言はれ」 「言へず」のレフレイン調も成功している。

 

なごり雪最後の通知箋渡す       太田成司

 

まさに万感の教師の姿が目に映るような句。はじめ「なごり雪」が近すぎるとも思ったが、「これしかないか」 とも思った。通知表でなくて通知箋としたのも成功した理由と思う。最後という措辞があるので卒業の三学期の通知表であることもわかる。

 

啓蟄や首より覗く絆創膏        西村榮一

 

啓蟄の句は概念で勝負すると失敗することが多い。この句は首より垣間見られる絆創膏というありふれて、卑近なものに焦点を当てたことが成功している。覗くという言葉が、啓蟄の出てくる感、穴からでてくる感覚と相応すると思う。
 
 

◇ 
 

以上、今回も誤読、失礼あるやもしれませんが、どうかご寛恕を。
それではまた(あ~またと言ってしまった)。
 
 

※「また」次回もよろしくお願いします、喜夫さん♪
 そしてみなさまのコメントもお待ちしております(^^by事務局(J)


 

1 件のコメント:

  1.  種蒔いて峰を降りゆく巨人かな

    この句を鑑賞くださってありがとうございます。
    今回の【itak】の直前に、伏島信治さんという方が亡くなられました。
    http://laterne.exblog.jp/
    文学館に拠点を移したばかりの第3回イベントに、新聞記事を頼りに参加してくださった方でした。登山がご趣味で、山にちなんだ俳号を「峰四」と定めてしばらくは繁くご参加いただきましたが、ご病気が見つかり闘病生活に入られ、とうとう再会することが叶いませんでした。
    峰四さんは残された時間を「下山」と呼んでいらしたと伺いましたので、彼が札幌の文化と芸術に残した大きな足跡に敬意を表して、「峰を降りゆく巨人」と詠ませていただきました。蒔かれた種が花を咲かせ実ることを、心より祈って。
    お目に留めていただき感謝いたします。

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