2014年2月28日金曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~岩本 茂之~

 

句集『無量』の一句鑑賞



岩本 茂之

 

 
 はまなすや語り部として地に翳る     五十嵐秀彦


3年前、日本最東端・根室半島の先端にある納沙布岬に行った。どっしりと低くて太い灯台からは歯舞諸島がよく見え、北海道が千島列島とつながっていることを実感させられる。北海道地図を広げると、利尻、礼文、天売、焼尻、奥尻といった他の離島より本島に近いことが分かる。その日は島から煙が上がっているのが見えた。燃しているのはもちろんロシア人で、その距離たった3キロちょっと。こんなに近いのに人と人との行き来はない。

灯台のそばには、やはり日本最東端をうたう食堂があって、私はラーメンで体をあたためた。そんな食堂のそばや、海辺にはハマナスが咲いていた。ハマナスの花は、あの派手で華麗なバラ科に属しながら、どこか地味で寂しげで、荒涼とした何もない海辺がとても似合う。

長い長い歴史のなかで、ハマナスはいくつもの物語を見てきたことだろう。例えば、クナシリ・メナシの戦い。フランス革命と同じ1789年(寛政元年)、和人が科した苛酷な労働や暴行に怒ったアイヌ民族の有志が蜂起し、首謀者37人は松前藩によってこの地で処刑された。その石碑もあって、その事実を初めて知った。現代に入っても1945年夏のソ連参戦で歯舞の住民は島から追い出され、漁師は長年、拿捕や銃撃に苦しんできた...。


掲句は、史実に残らないことを含め、厳寒の北海道でたくましく生き抜いてきた人間や生き物たちのさまざまを想起させてくれる。そしてハマナスの赤は、ブラキストン線の北側で生まれ育った者の持つ北方性を色濃く帯びているとも感じさせてくれる。



☆岩本茂之(いわもと・しげゆき 俳句集団【itak】幹事 北舟句会)






 

2014年2月26日水曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~恵本 俊文~


句集『無量』の一句鑑賞

恵本 俊文

 
 
 こときれてゆく夕凪のごときも        五十嵐秀彦



2013年12月29日夜。

東京、新宿のゴールデン街にある「裏窓」という店にいた。

故・浅川マキさんの曲名を店名とした狭い店内には、マキさんが使ったヤマハのアップライトピアノが置かれている。この日は、マキさんとの共演も多かった渋谷毅さんのソロライブが開かれた。

「夕凪」が織り込まれた一句。マキさんの「夕凪のとき」という曲が思い浮かぶ。ぱったりと風が止むとき、命あるすべてのものがこときれる。いや、命なき無機物までもが、そうであるような気さえする。夕凪のごときものは、身の回りに、無数にあるのだ。風が急に止む瞬間、ぼくは言葉すら失ってしまいそうになる。

かつて、マキさんがポロンと弾いたピアノから流れてきたのはダニー・ボーイ。渋谷さんが演奏を終えた時、この小さな店にも夕凪が訪れた。



☆恵本俊文(えもと・としふみ 俳句集団【itak】幹事 北舟句会)

2014年2月24日月曜日

照井 翠 句集『龍宮』 一句鑑賞 ~鈴木 牛後~


句集『龍宮』の一句鑑賞

鈴木 牛後
 


震災の鎮魂の句集である「龍宮」。前半はまさしく被災の句群だ。一ページに一句、まるで鉄の棒のように句が置かれている。これらの句群について語る言葉を私は持たない。テレビ画面でしか震災を知らない私が、立ち入ることのできない領域がそこにはある。

ページが進むにしたがって、作者の心にも少しずつ変化が訪れてくるようだ。やや穏やかな心情を詠んだ句と、フラッシュバックする被災の句とが入れ替わりながら現れる。私も読者として、作者の寛解を、ごく一部ではあるが追体験している気持ちになった。


 今生のことしのけふのこの芽吹         照井 翠

震災から一年が経った春の句。新しい一歩を踏み出そうとしている作者の心持ちが窺われる。あのとき死んでいても不思議ではなかったという思い。それが「今生のことしのけふの」という措辞にあらわれている。「けふ」がどれだけ価値があることか。作者は日々それを感じているのだろう。

掲句は「真夜の雛」と題された章の冒頭の一句である。この題は、《亡き娘らの真夜来て遊ぶ雛まつり》という句から取られている。《半眼に雛を並べゆく狂女》という句さえある。その中で掲句を冒頭に持ってきたというところに、読者はほっとするのである。作者を、そして私たち一人ひとりを包む芽吹きの何と愛おしいことか。
 


☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)


照井 翠 句集『龍宮』 角川書店
http://www.kadokawa.co.jp/product/321306000185/




2014年2月22日土曜日

第12回俳句集団【itak】イベントのご案内(再)


第12回俳句集団【itak】イベントのご案内(再)です。


俳句集団【itak】事務局です。
歳時記の上では春ですが各地での大雪。お見舞い申し上げます。

下記内容にて【itak】の第12回 講演会・句会を開催いたします。
どなたでもご参加いただけます。
今回は國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人の月岡道晴さんによる講演会を行います。多くの方々のご参加をお待ちしております。
第一部のみ、句会の見学のみなどのご参加も歓迎です。

実費にて懇親会もご用意しております。お気軽にご参加ください。

◆日時:平成26年3月8日(土)13時00分~16時50分

◆場所:「北海道立文学館」 講堂
     札幌市中央区中島公園1番4号
     TEL:011-511-7655


■プログラム■ 

 第一部 講演会『短詩型における「文語」と「口語」~信仰としての二分類~』
     國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人 月岡道晴


 第二部 句会(当季雑詠2句出句)

 <参加料> 一   般  500円
 高校生以下  無  料(但し引率の大人の方は500円を頂きます)


※出来る限り、釣り銭の無いようにお願い致します。
※イベント後、懇親会を行います(実費別途)。
 会場手配の都合上、懇親会は事前のお申し込みが必要になります。
 会場および会費など、詳細は下記詳細をご覧ください。


※今回は休憩時間などに、某有名俳人から【itak】に寄贈された約160冊(増えました!)の文芸書を無料でお分けします。お互いに譲り合いつつ、ご遠慮なくお持ちください。また、頒布会は5月も開催します!

 



 
■イベント参加についてのお願い■

会場準備の都合上、なるべく事前の参加申込みをお願いします。
イベントお申込みの締切は3月5日とさせて頂きますが、締切後に参加を決めてくださった方もどうぞ遠慮なくこちらのメールにお申込み下さい。
なお文学館は会場に余裕がございますので当日の受付も行います。
申し込みをしていないご友人などもお連れいただけますのでどなたさまもご遠慮なくお越しくださいませ。
参加希望の方は下記メールに「第12回イベント参加希望」のタイトルでお申込み下さい。
お申し込みには下記のいずれかを明記してくださいませ。
①講演会・句会ともに参加
②第一部講演会のみ参加
③第二部句会のみ参加(前日までにメール・FAXなどで投句して頂きます。)
特にお申し出のない場合には①イベント・句会の通し参加と判断させて頂きます。

■懇親会詳細と参加についてのお願い■

 会場:地の酒地の酉・まる田 七番蔵
    札幌市中央区南2条西4 フェアリースクエアビル1階

 
 時刻:17:30~19:30
 会費:4000円(飲み放題つき)
※イベント受付時にご精算をお済ませください。
※当日のキャンセルは後日会費を申し受けます。

準備の都合上、こちらは必ず事前のお申し込みをお願いします。
懇親会申し込みの締切も3月5日とさせて頂きます。
以降はキャンセル待ちとなりますがお問い合わせください。
参加希望の方はイベントお申し込みのメールに ④懇親会参加 とお書き添えください。

   
itakhaiku@gmail.com

ちょっとでも俳句に興味ある方、今まで句会などに行ったことのない方も、大歓迎です!
軽~い気持ちで、ぜひご参加ください♪
句会ご見学のみのお申込みもお受けします(参加料は頂戴します)。

北海道立文学館へのアクセス
※地下鉄南北線「中島公園」駅(出口3番)下車徒歩6分
※北海道立文学館最寄の「中島公園」駅3番出口をご利用の際には
①真駒内駅方面行き電車にお乗りの方は進行方向先頭部の車両
②麻生駅方面行き電車にお 乗りの方は進行方向最後尾の車両に
お乗りいただくと便利です。




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2014年2月19日水曜日

俳句集団【itak】第11回イベント抄録


『音と言葉 ~うた作りの現場から~』

 言葉に音がつき、うたになる。リズムが反復し、時間が生まれる。
金子みすゞの詩に作曲する中で考えたこと、感じたこと。

講演 作曲家・音楽研究者 久保田 翠 

2014年1月11日@札幌市資料館

 

俳句集団【itak】の2014年初イベントは、1月11日、札幌の札幌市資料館で開かれました。第1部は、札幌出身の作曲家・音楽研究者、久保田翠(くぼた・みどり)さん=東京在住=が、『音と言葉 ~うた作りの現場から~』と題して講演。久保田さんは、詩人金子みすゞの詩をもとに作曲するなどの活動をしており、講演では、作曲家から見たみすゞ作品の特徴や日本歌曲について説明しました。


 

 ◇◇◇

 私は、作曲をメインとして活動しています。きょうは、自分の作品、歌曲について話しながら、みなさんの興味もある「言葉」についても説明したいと思います。「反復」という言葉を中心に、最終的には、今、論文で書いている「時間」についてもお話します。

私は、金子みすゞの詩に歌をつける、作曲する活動をしています。みすゞは、1903年に山口県仙崎で生まれ、26歳で亡くなっています。西条八十に認められ、その名が一躍知られました。まだご存命の一人娘、ふさえさんを残したまま、服毒自殺するという悲しい結末を迎えました。

みすゞの詩は、大きな特徴として、言葉が5音、7音ベースとなっています。もちろん8音、6音もあり、厳密ではないですが、割と5・7調、7・5調でつくられています。シンプルなつくりで、一度聞いたら記憶に入るような言葉です。例えば、私が作曲した『夕顔』という詩をみても


 『金子みすゞ全集』(JULA出版局)より
 

――リズミカルに、七音・五音を反復しています。7・5調的なリズム。俳句をつくっている方には釈迦に説法なのですが、7・5もしくは5・7調は、日本人には心地よいものです。例えば、企業のコピーも7音・5音のリズムでつくられ、記憶に残ることが多いです。少し前のCMですが「24時間戦えますか」―など覚えやすいものが多いです。

詩に音を付けていく段階を話します。日本語の詩、詩人の作品に対して作曲家が作曲する「日本歌曲」というジャンルが、今でもたくさん歌い継がれています。例えば、山田耕筰さんなどです。詩人と作曲家の共同作業的なものが日本歌曲のベースにあります。私の作曲活動もその延長上にあります。日本歌曲は基本的に、詩の全体に対して、音を付けていく。詩を一回、通して歌い、終わるという形です。

例えば童謡『どこかで春が』(作詞・百田宗治、作曲・草川信)という曲も、 

 
一度、詩を歌いきって終わる――日本歌曲の伝統的なやり方です。現代の歌曲をつくる人も、この手法が多い。ただ、私の場合は、しばしば「反復」を利用、積極的に「リフレイン」を多様します。詩の中の言葉をわざと分解して、バラバラにしたり、部分だけを反復させたりしています。

『積つた雪』というみすゞの詩、短い詩があります。



 『金子みすゞ全集』(JULA出版局)より


この詩を女性歌手2人のために作曲しました。

(※音源を流した後に)

聞いていただいて分かると思いますが、詩の中のいろんな部分が飛んでいます。日本歌曲は、最初から通すのが普通ですが、私はそれをやりたくなかった。「中の雪」の「さみしかろな」が一番ぐっと来るポイントだった。「上の雪」「下の雪」を反復させた上で、ここぞ言うときに「中の雪」を使いたいと思い、わざと後ろに持ってきました。

日本歌曲の伝統的作曲方法は、詩の作品が詩として強く独立しているので「詩至上主義」ともいえるかもしれません。作品を尊重、大事にするやり方。確かに詩を優先するのは大事ですが、ではなぜ歌を付けるのか、作曲するかという問題が出てくると思います。もし、詩が作品として完結しているのを大事にするだけなら、自分が歌を付ける意味はどこにあるのか。例えば、自分は詩のこの部分が大事だから強調して作曲したい。そうすることで、私自身が、詩に対してどう感じているか、捉えているかを表現できると思う。詩には独特のリズム、時間があるが、逆に音には音のリズム、流れがあります。作曲する、歌を作るのは、詩と音のそれぞれ持つ異なる時間を、どうすりあわせるかだと考えています。

 詩は、文章の形など目で見て確認できます。『積つた雪』も上、下、中のそれぞれの雪について書いているんだなと、目で見て理解できる。ところが、音楽は、全体の流れを見ることができない。その時に流れている音しか聴くことができない。言葉をその都度聞いていくことでしか捉えることができません。

耳で詩を聞いていると、通してさらっとひっかかりがなく流れてしまうが、特定の言葉を繰り返すと、自分の中で定着、反芻して味わうことができると思います。それが、音楽で反復を用いる大きな意味だと考えています。言葉の持つ響き、重要性を繰り替すことで味わうことができる、それが反復の魅力だと感じています。

時間の進み方ですが、詩を一度通して朗読することは、始まって終わりがあるという一方向的な時間の在り方です。詩を順番に読んでいく。そこに音楽によって自由な反復、飛んだりとかが起こると、一方向的な時間が急に逆戻りしたり、時間の進行に変化が起こる。いわば、言葉と言葉の間に時間の吹きだまりができると捉えています。そこに私たちは身を沈めることができると思います。

 詩、言葉は全体を眺めることができますが、音楽は時間を順次追って聴かないといけない。その瞬間の音しか聴けません。そこが詩と音楽の違いであり、作曲家として考えがえのあるところだと思います。


 もう一つ紹介したい作品があります。反復をキーワードとして出したので、反復だらけで作曲した作品を持ってきました。『わらひ』という作品です。


 『金子みすゞ全集』(JULA出版局)より

 
 みすゞとしては変則的な作品です。もともと童謡としてつくっているので、同じリズムを繰りかえすことが多いのですが、この作品は前半が5行、後半3行という不規則に分かれている珍しい作品です。

(※音源を流した後に)
 
曲も4分の5という珍しいテンポでつくりました。詩の使い方も変則的だったとわかると思います。上の5行「それはきれい薔薇いろ~おほきな花がひらくのよ」などを2回繰り返し、最後の「どんなにどんなにきれいでせう」というフレーズを、私は、合計で4回繰り返しました。詠嘆のこもった「どんなにきれいでしょう」というのが、重要だと思いました。最後の最後で気持ちが出てくる。ここを強調したい、味わいたいと思って曲をつくりました。

 こうした作り方は、作曲家の中には邪道と思う人もいるかもしれません。勝手に詩を変えてしまうのは、詩人に対する冒涜と言う人がいるかとも思います。しかし、作曲家が、詩の世界を尊重し、気持ちを生かして、詩を再構成して作曲するのなら、きっと許されることなのではないかと、私自身は勝手に思っています。

 最後にアウグスティヌス(ローマ末期の神学者、哲学者)の有名な言葉を紹介します。
「時間とは何であるか。誰も私に問わなければ、私は知っている。しかし、誰か問う者に説明しようとすると、私は知らないのである。」
時間についての論文や研究者の中では、多く引用される有名一文です。簡単に言うと、「時間というのはみんな誰もが分かっている。みんなが時間の中で生きているけど、『時間って何』と改めて聞かれたら、私は説明することができない」。知っているのに言葉で説明するのは難しい―ということです。
私が作曲するときに大事にしている台詞、考え方です。音楽は時間芸術と言われます。限られた時間の中に音が順番に立ち現れて、生起していく。ただ、私自身は、詩を味わう、詩を詠む中にも、時間があると思っています。文章で読むと全体を俯瞰して詩を詠むことできる。好きなところだけ読めるが、詩の作品の中でどういうふうに言葉が配置されているのか、言葉の順番は決められていて、本質的には通して読んで理解するものです。言葉の位置が変わっただけでも意味合いが変わってくる。きっと俳句でもあることだと思う。ちょっと言葉の順番が変わるだけで、意味が劇的に変わる。言葉はどういう順番で出てくるか重要なことです。それにより感じてくる風景、意味合いは変わってきます。音の中にも、言葉・詩の中にも、それぞれ独特の時間があると感じています。

音の時間と言葉の時間をぶつかりあわせて、最終的に作品として融合させる。歌という形にする。アウグスティヌスが言うように、時間そのものを言葉で説明するのは難しいですが、時間の中に音とか言葉とかを通じて、私たちは浸ることができます。ひたすら歌を聴きながら感じ取ること、没頭することができる。そのことが、時間が持つ本質、人間の喜びなのではないかと思っています。


久保田翠(くぼた・みどり)

札幌市生まれ。5歳よりピアノ・ソルフェージュを始める。
東京藝術大学音楽学部作曲科を経て、東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論分野修士課程入学。同大学大学院博士課程単位取得満期退学。これまでに作曲を南聡、安良岡章夫、尾高惇忠、近藤譲の各氏に師事。東京国際室内楽作曲コンクール、奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門のそれぞれに入選。作曲・編曲のほか、ピアノ・オルガン演奏や伴奏も手がけている。
また近年ではパフォーマンス活動にも力を入れており、2011年には自身初となるソロ・パフォーマンス「SCORES」を開催した。「実験音楽とシアターのためのアンサンブル」メンバー。和洋女子大学、青山学院大学大学院非常勤講師。

 URL
 久保田 翠   http://www.midorikubota.com
 JULA出版局 http://www.jula.co.jp/


※金子みすゞの詩は、金子みすゞ著作保存会の許可を得て掲載しています。
※音源リンクは金子みすゞ の世界CD発売記念特設サイト内収録曲試聴ページです。
  http://midorikubota.com/misuzu_special_tracks.html

☆抄録:久才秀樹(きゅうさい・ひでき) 北舟句会


2014年2月17日月曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~栗山 麻衣~


句集『無量』の一句鑑賞

栗山 麻衣

 
 
 無頼派と生活人の万華鏡        五十嵐秀彦



いやあ遅くなってすんまそん。五十嵐秀彦さんの第一句集「無量」面白く読ませていただきました。イタック内部であんまり褒め合うのもどうなのかなーと思いつつ、やっぱ素晴らしかったです。いやあ勉強になった。


 一読しての印象は、どこか哀しみをたたえたアングラ芝居を見た時のような感じと申しましょうか。あまり俳句では見ないような言葉、非日常世界へ連れていかれるような表現に驚かされ、その独特の凄みに圧倒されました。「一代の咎あれば言へ沙羅の花」「蝶有罪あるいは不在雨あがる」「月光の告訴満ちゐる口の中」とかね。


 しかし、みんなよく見て! ワタクシは当初見落としておりましたが、地味だけど情景が浮かんだり、ユーモアが漂ったり、しみじみしたりする句も意外に(←失礼)あるのですよ。役者が楽屋でふと漏らした言葉のようなやつ。「新涼や夕餉に外す腕時計」「氷下魚裂くつまらぬ顔は生まれつき」「窓ぬぐふ人惜しみ年惜しむとき」とかとか。
 というわけで、結論。この句集の魅力はずばり、作者の心の中に住む絢爛たる無頼派と堅実な生活人の織りなす万華鏡的輝きなのだ。ちなみに、その世界観が融合したような作品もありマス。「茄子漬の昨日に染まる箸の先」「靴底の雪剥がし黙剝がしけり」(←これが一番好き)「数珠持つて来いと言はれし花見かな」とかとか。日常を詠んでいるにもかかわらず、味わっているうちに異世界へと足を踏み出してしまう。



☆栗山麻衣(くりやま・まい 俳句集団【itak】幹事 銀化)


2014年2月15日土曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~鈴木 牛後~


句集『無量』の一句鑑賞

鈴木 牛後

 
 
 沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて        五十嵐秀彦


「われら」には独特の郷愁の匂いがする。なぜだろうか。
「われら」と聞いて思い出すものがふたつある。
ひとつは大江健三郎の「われらの時代」。学生時代の一般教養の文学のレポートにこの小説のことを書いたおぼろげな記憶がある。もちろんどんなことを書いたのかはまったく憶えていないのだが、単位を取得できたところをみるとまあまあの線をいっていたのかもしれない。
もうひとつは青春ドラマの「われら青春」。中学生のころだったと思う。青春とは何かも知らないくせに、面白くて欠かさず見ていた。
イメージとしての「われら」が表象するものは「連帯」というようなものか。「われらの時代」では時代との連帯はついに実現しないのではなかったかと思うが、夢想としてのそれはおそらく底流としてあっただろう(記憶は曖昧だが)。「われら青春」では、浪費としての連帯がはてしなく続いていった(こういう言い方は語弊があるかもしれないが)。浪費こそが青春だと言い換えてもいいかもしれない。誰しもが思い出すそんな日々。もう私たちには「われら」と呼ぶ関係は帰って来ない。
作者はそれを悲観しているかと言えばそんなことはないだろう。降ってはすぐに融ける沫雪のような心性は、所詮一時期のものだ。すぐに草は生い茂り、否応なく生は転がっていく。それに、誰もが気づいているように、連帯とは裏を返せば桎梏でもある。連帯を求めて桎梏にからめとられた季節が作者にもあったに違いない。
そう、僕たちはもう「われら」と自分たちを呼ぶことはない。しかし、年齢相応に伸ばした触手同士が触れ合うことはあるだろう。連帯ではなく桎梏でもない何か。もしかしたら俳句の座はそのようなもののひとつかもしれない。作者のイタックに対する思いをこの句からほのかに感じるのは私だけではないと思う。



☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)

2014年2月13日木曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~高畠 葉子~


句集『無量』の一句鑑賞

高畠 葉子

 
 
 靴底の雪剥がし黙剥がしけり         五十嵐秀彦





雪の朝。前を歩く人の靴底の凹凸をそのまま残し剥がれゆく雪に見とれた事があった。そのシーンは長く私の記憶にとどまっている。いつかこのシーンを表現したい!と冬が来るたびに思いは募るばかりだった。

2013年夏。句集『無量』を開き、真っ先に飛び込んできたのは掲句だった。雪と暮らす人ならば靴底の跡がほろりと剥がれる様に気付く人も少なくはないはずだ。そしてこの秒に満たない瞬間を切り取るのが俳人なのだろう。

この句に出会ってから私は何度となく、靴底から(それは男靴だ。けっして女靴ではない)剥がれる雪と剥がした雪を想った。雪を剥がし、黙を剥がす。ここに、ある瞬間「黙」と決別した(それも長年の黙だ)男が見えてくる。そうだ。この句は解放の句であるのだ!と読みだすと、靴底の雪を剥がした「力」を読まずにはいられない。それはほろりと靴底の雪を剥がす重力ではないのだ。ぱんぱんと自らが地を蹴り雪を剥がし決意を新たにする動作があるのだ。人は何かを思いきる時、或いは決意する時、その瞳は一瞬の動きを捉えるものらしい。私にも剥がれた雪がスローモーションで見えた気がする。

秀彦さんには雪がよく似合うと思う。初めてお会いしたのが雪の夜だったからかと思いきや、多くの方が秀彦さんと冬という季節を重ねているようだ。
これからも秀彦さんの雪を秀彦さんの言霊で触れてゆきたい。



☆高畠葉子(たかばたけ・ようこ 俳句集団【itak】幹事 弦同人)

2014年2月11日火曜日

「 遠くあり 」   堀下 翔








☆堀下 翔 (ほりした・かける)
 1995年生まれ。旭川東高校年生。「里」「群青」同人。
 俳句甲子園第15、16回出場。



「冬帽のぬくもり 」   木村 杏香







☆木村杏香(きむら・きょうか)
 1997年生まれ。旭川東高校年生
 俳句甲子園第16回出場。


「重力」   渡部 琴絵

 
 
 
 


☆渡部琴絵(わたなべ・ことえ)
 1997年生まれ。旭川東高校年生
 俳句甲子園第16回出場。


2014年2月9日日曜日

『牛後が読む』 ~第11回の句会から~ (最終回・掲句一覧)


『 牛後が読む 』 (最終回・掲句一覧)


 ~第11回の句会から~

鈴木 牛後
 


 いくたびも手を振りまたね風花す


こういう素直な句にも惹かれる。「またね」という口語の話し言葉と、「風花す」という文語のギャップ。これを嫌う人はおそらくいるだろうが、この句は「またね」がないと成り立たない。またね、と去っていく人を見送る間があって、そして風花。遠く山を越えてくる風花に、見知らぬ土地へと赴いてゆく友のきらめきを見ているのだ。


 太陽を拝む母の背御慶かな



初日の出を見たいという高齢の母親を連れ出したのだろうか。今年も初日を見られてよかった、という母親を見守る作者。「母の背」という視点があたたかい。

母親と過ごした数十年もの月日。作者はずっと母親のことを太陽だと思ってきたことだろう。太陽を拝む太陽。もしかしたら作者も母親かもしれない。連綿とつづく光の連鎖。まさしく新年を迎えるに相応しい景だ。


 葉牡丹や騙されていい嘘もある


葉牡丹というのは変わった植物だ。キャベツの仲間なのに食用ではなく鑑賞用なのだから。どう見ても花だが実は葉だという、言ってみれば人を騙しているような植物である葉牡丹。

それでもみなが愛でてきたから今の姿があるのだ。「騙されてもいい嘘もある」。もう言い尽くされたフレーズなのに、葉牡丹と取り合わせることで人を騙している句と言えるかもしれない。


 人体に似たる大根わし掴む


「わし掴む」という言葉はあるのだろうか。広辞苑には「鷲掴」(わしづかみ)は載っているが、「わし掴む」は載っていない。「鷲掴み」から派生した新しい言葉、あるいは作者の造語なのかもしれない。

認知されている言葉ではないが、いやそうではないからこそ、この言葉にはあるエネルギーを感じる。ふつふつと湧き上がってくる詩があるような気がするのだ。それは、人体に似た大根に潜むエネルギーや、「鷲掴む」その手のひらの大きな動きとも共鳴し、ひとつの世界を形成している。



  (了)

 
『牛後が読む』をご高覧頂きありがとうございました。
文中掲句について一覧をまとめましたのでご覧くださいませ。


(その1)

雪しんしん人に哲学木に年輪    平 倫子 
去年今年夜空の色のうすはなだ  橋本喜夫
知床をがつしり摑む鷲の爪     林 冬美

(その2)

燃え移るやうにみみづく発ちにけり  堀下 翔
ひとつづつ減りゆくものと雑煮箸    五十嵐秀彦
町は青家出少女に電波飛ぶ     鍛冶美波
重ね着の内に裸の私いて        小張久美

(その3)
縦書の棒一行や去年今年       藤原文珍
冬晴れや調査書一枚ずつたたむ  太田成司
年玉にサランラップをかけゐたる  橋本喜夫
大寒の鍵穴に星砕く音        籬 朱子


(最終回)
いくたびも手を振りまたね風花す  恵本俊文
太陽を拝む母の背御慶かな     林 冬美
葉牡丹や騙されていい嘘もある   小張久美
人体に似たる大根わし掴む     瀬戸優理子

 
今回は『第11回を終えて』『句会評』『読む』の各種企画について、固定メンバーにもどっております。ご高覧ありがとうございました。コメントなどご遠慮なくお寄せください。


 

2014年2月7日金曜日

『牛後が読む』 ~第11回の句会から~ (その3)


『 牛後が読む 』 (その3)

 ~第11回の句会から~

鈴木 牛後


 縦書きの棒一行や去年今年


「縦書きの棒」とはもちろん俳句のことだろう。年の変わり目は、句材の宝庫。俳句の推敲でもしているうちに新年を迎えたのだ。

もちろん、この句は高浜虚子の「去年今年貫く棒のやうなもの」を踏まえているのだが、虚子の存在感と俳句に対する作者の思いが一体となっていて、まさに存在感のある句に仕上がっている。


 冬晴れや調査書一枚ずつたたむ


調査書とは俗に言う内申書のことらしい。生徒にとって調査書は、合否の鍵となるとても大事なものだ。これがあることによって、生徒は教師から無言のプレッシャーを受け続けなければならない。

一方、教師にとっても数十人の生徒の調査書を書くというのは、大変な作業だろう。それによって、ひとりの人間の人生を左右するかもしれないのだから。

冬晴れの職員室。一枚の調査書を開き、所見を書き込む。白い紙は、冬の日差しを浴びていくぶんあたたかい。その生徒のことをいろいろ考えながら丁寧に書きこみ、そして紙の温もりごとそれを閉じる。そしてまたつぎの一枚…。


 年玉にサランラップをかけゐたる


私が子どものころはまだ曽祖母が生きていて、正月に遊びに行くと必ずお年玉をくれた。親戚がくれるお年玉はみな小さい熨斗袋に千円札一枚とほぼ決まっていた。もちろん当時の千円は子どもだった私にとって十分に嬉しいものだった。

曽祖母はいつもちり紙に包んだ五百円札。みなの半分しかくれなかったのだが、それで曽祖母に何かよくない感情を抱いたことはなかったと思う。からだもすっかり弱って外出もできなかった曽祖母。その皺だらけの手で丁寧に包んでくれたお年玉ゆえに、おそらく子どもごころにありがたくもらっていたのだと思う。

さて掲句。ちり紙ではなくサランラップだ。もちろん保存のためではないだろう。曽祖母のちり紙と同じで、丁寧に包まれていたに違いない。握ったときのさりっとした手触りに、ほのかな温もりを感じる。


 大寒の鍵穴に星砕く音


寒、鍵、星の取り合わせはおそらくたくさんあることだろう。冴えたイメージに共通点があるからだ。この句の眼目は、おそらく「砕く」だ。冷たく冴える星の夜、何か決意を秘めて帰宅した作者。悠久の星空から現実へと足を踏み入れる儀式としての解錠に、「砕く」というイメージが降りかかってくる。

キーボードを叩く私の十指に、鍵の冷たさを不意に感じてしまった。


(つづく)