2015年7月25日土曜日

俳句集団【itak】第20回句会評① (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第20回句会評①

  
2015年7月11日


橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 久しぶりで、やり方をわすれた感じ。しかし句会の進行も以前よりもブラッシュアップしていたので、スムーズであった。今回も自由に、気楽に、思うままに句評してゆきますので、気に障ったら御寛恕を。付け加えると、朱子さんの句会の時のコメントは秀逸。ノーコメントでいいときも、良いところを見つけて褒めていた。これは本当に感心した。私にはできない。籬 朱子は、おそるべし。
 
 
 答案にへのへのもへじ風は初夏   酒井おかわり

 「へのへのもへじ」は落書きの絵文字であった。このような俳句表記も面白い。ただし「へのへのもへじ」はすでに昭和の遺物であるが・・・座五を「風は初夏」で、すかしたのもうまい。昭和ならこんな解答用紙でもこのような答案でも点をくれる先生もいたことだろう。この句のように少し挑戦すること、新しい表現法を大いに評価する句会であってほしいと思います。私は答案用紙に百人一首の短歌を書いて一点もらったことがあります。平成の時代は先生にとっても不毛な時代である。座五を「風ですかす」というのはひとつの技です。

 鈴の音は耳鳴りとなる山登り   鍛冶美波

 コメントで朱子さんも述べていたが、現代の山登り。北海道においてはクマよけの鈴は必須アイテム。そういう意味でリアルな句である。中七以下は 「耳鳴りとなる鈴の音」 でおさめたほうが座りがよいと思うが、好みではある。ただ鈴の音(ね)と読ませるのは個人的にはいかがか とは思う。たとえば「山下りいまも耳鳴り鈴の音」とか詩的には劣化したとしてもだれが読んでも伝わる句になるはずだ。もちろん「山下り」も季語。私は山登りが趣味のタクシーに乗ったことがあり、そのドライバーはクマよけの鈴を車内に垂らしていた。だからブレーキ踏んだり、急停車するたび鈴の音が鳴り響き、葬式か、仏壇のなかにいるようで、あまり良い感じはしなかった。私も不快なのだから、羆もきっと不快なのに違いないと妙に納得。

 雲の峰鷲掴みしたい男くる   福本東希子

 中八はどうかと思うが、おおづかみな男の見立ては実に気持ちのよい措辞。口語調のほうがこの句の本当の良さが出てくると思うが、中七に収めようとすると 「鷲掴みしたき男や雲の峰」となってしまい、どうも良さが出ない。鷲掴みしたいのは作者だと思うが、ここは「雲の峰」に鷲掴みさせたほうがいいのではと思う。「中八おんな」と自称する櫂 未知子ほど私はこだわらないが、高校生の参加する当句会においては中八でよしと思って貰っては困る(俳句甲子園で勝てない)。そのあたりは俳句のリゴリズムを守ってほしい。選句するひとたちもその辺は気を付けないと。某俳句協会からレベルの低い句会と揶揄されたら不快でしょう、羆みたいに。一例は「男くる鷲掴みする雲の峰」などでも十分詩になると思うのだが。男がまるで「進撃の巨人」や「だいだらぼっち」みたいでかっこいいですね。中八問題にもどるが、ここは選句した方たちの意見を聞きたい。問題は中八でもゆるせるほどの詩になってるか が論点である。中八を許してまでも余りある作品ならいいですが。

 ラベンダー約束のごとにほひけり   室谷安早子

 あっさりとした措辞であるが、ラベンダーのにおい、約束という措辞にとてもマッチしている。青春の約束のような、淡い恋のような感じがして瑞々しい感性。中七の「ごと」ここで切れることになるので文法的に問題かもしれない。その場合は「約束のごとく匂へるラベンダー」でもおさまりそうだ。私がしるしをつけながら最後に頂かなかったのは文法的に大丈夫か?ということだ。ラベンダー/約束のごと/にほひけり と三段に切れる感じがした。私は国語の先生でないので、この辺りは尊敬するかをりさんに意見を聞きたいところ。「いつから橋本はそんな文法にうるさくなった?」ともうひとりの自分がちゃかしているが、もちろん文法至上主義ではないし、うるさいこという人は嫌いですが、自分でもおなじ形の句をつくったことがあり、疑問でした。詳しい人おしえてね。
 ちなみに「ごと」俳句で私の一番好きなのは「うすらひは深山へかへる花の如 湘子」良い句ですね。文法的にも完璧です。

 つばめつばめどこかに古城ありさうな    久保田哲子

 つばめは軒下に営巣するので、高い建物、高い塔などと組み合わせると俳句になりやすい。ヨーロッパの古城なんか合うよな、なんて思う。そういう意味で古城がとても合うのであるが、でき過ぎの感があるので、そこに「つばめつばめ」と細見綾子ふうにリフレインでアクセントをつけている。ここらあたりが本句会の最強の手練れの技なのだ。それと「いいさし」の止め方も素晴らしい。これ初心者がやると自殺行為です。

 朱夏ゆらり五臓六腑に夕日入る     山田美和子

 オノマトペはむずかしいのだが、この句の「ゆらり」は効いている。一番太陽が強い時期の夕日があたかも内臓までしみこむ肉体感覚を ゆらり というオノマトペが十全に言い表していると思う。でっかい太陽がゆらゆらと地平線に落ち行くときに相対してちっぽけな人間の内臓にまでしみこんでくるという意だ。ちなみに作者の他作品の座五「〇〇の涙」を指折り数えて「あー六だ」と言ったところとても可愛かったです(何言ってんだ私は)。

 一時間待って夏野を持て余す      恵本俊文

 なんとなくわかるのだが、実はかなり読み手に預けた句である。そういう意味では曖昧な佳句ということ。一時間待って/で深いスリット(切れ)がある。誰が待っているか、誰を待っているかわからないつくり。夏野を満喫できる時間を待っている ともとれる。朱子さんは「夏野を持て余す」、を文字通りうけとり、すこし飽きてしまう的ニュアンスを言っていた。その読みも可。しかしこの場合、夏野の広大さ、夏野のエネルギーを持て余す と解釈するほうが自然かもしれない。窓秋の「頭の中で白い夏野になつてゐる」の句が写生ではなく、「紙に夏野と書いて一週間眺めて作った」と言っていたが、頭の中のイメージの句として有名だ。この句も「夏野」を脳の中でイメージして作った句であろう。もちろん実景かもしれない。ちなみに写生派が「頭で作るな」というが、それならどこでつくるの?大脳皮質にきまってるじゃん と私は反論したい(なんか今日は私とげがあるな)。


(つづく)


 

1 件のコメント:

  1. 松王かをり2015年7月27日 12:02

    松王かをりです。
    *橋本喜夫氏のご質問に答えて*

    助動詞「ごとし」の連用形である「ごとく」を省略して「ごと」と使っていいかどうかというご質問だと思いますが、結論から言えばOKです。
    助動詞「ごとし」の本来の活用からすると、室谷さんの句は、「ラベンダー約束のごとくにほひけり」ですが、連用形の「ごとく」を「ごと」と「く」を省略して語幹だけ使う用法は、すでに万葉集にも見られるのです。したがって、「約束のごとにほひけり」で文法的にもOKです。終止形の「ごとし」も、この語幹用法を使ってOKです。句の最後を「ごとし」でおさめないで、「ごと」でおさめる句もよくありますよね。
    ただ、湘子さんの句の「如」は終止形ではなくて、連用形「ごとく」の語幹用法の気がしますが・・・間違っていたらごめんなさい。

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