2016年1月28日木曜日

俳句集団【itak】第23回句会評⑥ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第23回句会評⑥

  2016年1月9日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 福袋女の怖さ袋分。          藤澤汐里

福袋を争って買い求める女の餓鬼のような顔が思い浮かんで結構怖い。「袋分」という怖さが笑えるが、この袋に原爆級のエネルギーを女は秘めているのだ。最後の句読点「。」がさらに恐ろしさを増長させている。間違って付けたのか、深い意味があるのか、作者に聞くのも怖い感じがする。ここに怯えている還暦近い男がいる。


 裸婦像を残しものみな冬囲ふ    猿木三九

冬囲いがほぼ終了しているのであるが、裸婦像だけは取り残されている景。その寒々した景はとてもシュールで面白い。秀彦さんが天で採ったのも肯える。ただ高点句にならなかったのはわかりずらい表現であるから。「ものみな」がわかりずらくしている。たとえば「裸婦像を残してあとは冬囲」だとか「裸婦像を残しすべてを冬囲ふ」など。とにかく一番先に囲わねばならないものを一番あとまで囲っていない可笑しさがそこにある。


 着ぶくれて己れの芯を見失ふ    籬  朱子

うまいと思ったら案の定この作者の高点句である。平さんの「ぼくはぼくになりたい」が詩に傾いたアイデンテイテイー追求の句だとすると、掲句は「着ぶくれ」の季語を縦横に使いこなして天下一品の〇人協会的なアイデンテイテイーを詠んでいる。そういう意味では平さんが、天で採っているのも面白いし、作句、選句の微妙な関係が窺える。つまりいくら「着ぶくれ」ても、テクニックを付けても、詠みたい芯みたいなものは作者個々にあるのである。ゆずれない「何か」である。さてこの句「着ぶくれ」の中身を太った生身の肉体でなく、その中の芯を見通しているところがフックである。


 初湯たぷたぷ何時の間にやら古希迎へ  田口三千代

大変語数が多く、詰まった感じが否めないが、「たぷたぷ」といオノマトペがゆったり感を演出している。お湯の「たぷたぷ」、そして古希を迎えた女性のふくよかな「たぷたぷ」が、いやらしくない措辞として響き、初湯の縁起の良さがでている句だ。


(つづく)

 

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