2016年4月5日火曜日

俳句集団【itak】第24回イベント抄録

 
俳句集団【itak】第24回イベント抄録
 
『届け演歌の風!岡大介 カンカラ三線ライブ』
~もの言えぬ庶民の心を歌う~
 
2016年3月12日 札幌・道立文学館

 
はじめまして、カンカラ三線岡大介(おか・たいすけ)でございます。よろしくお願いいたします。喋る声もマイクなしで聞こえますか? できれば演説歌は生の声で聴いてほしいので。私は今、浅草の演芸場などで寄席の色物(落語以外の芸人)の仕事をしたり、いろんな宴会で歌ったりしているんですが、一番やりたいことは本当の「演歌」を伝えたいんです。本当の演歌は「もの言えぬ庶民の心を歌う」、これが演歌なんです。
明治時代には演歌のスーパースター添田啞蟬坊(そえだ・あぜんぼう)さんという方がいらっしゃったんですが、その人の歌を中心に歌わせていただきます。啞蟬坊さんは俳句もやられていたということです。 

 
1曲目は、啞蟬坊の「むらさき節」から。彼は生涯約300曲つくったと言われていますが、その中で本人が一番好きだったと言われている曲です。
 
 
<1>  むらさき節
 
 
次の歌は、これが演説歌の原点になったとも言われる「民権数え歌」です。
 
 
<2>民権数え歌
 
 
演歌の始まりは、板垣退助を支援する壮士が政治批判の街頭演説をした時、政府に弾圧されたこと。じゃあ自分たちの思いをどうやって伝えるか。その時思いついたのが唄だったんです。演歌の第一声ともいえるのが明治20年ごろの「ダイナマイト節(ダイナマイト ドン!)」です。すべて無伴奏。明治の後半にバイオリン演歌というのが出てくるんですが、私は本質の演歌を追求しているので、必ず歌わせていただいております(カンカラ三線を置いて)
 
 
<3>ダイナマイト節
 
 
これを聴いた人たちが、あれは演説でもあり、歌でもあると言ったのが「演歌」の語源です。のちにレコードの時代になって、作詞作曲家がついた流行歌に名前だけ「演歌」が残ってしまいました。ただ、私は演歌の本質「庶民の心を歌う」という思いで、演歌を全国に届けています。
 楽器の説明をしてもいいですか? この変わった楽器、カンカラ三線。ご存じの方はいらっしゃいますか? この楽器は戦争中に沖縄で生まれた楽器です。沖縄の人たちが米軍 の捕虜になってしまい物資をすべて取り上げられて、三線も奪われた。でも、どんなに辛い時も歌や音楽が必要だということで、ある物で作りあげた代用品がこれなんです。棹の部分は米軍の折りたたみベッドの木、弦はパラシュートのひも、胴は配給用の缶詰の缶。苦しい時にこれで歌を歌ったという、沖縄の心の叫びの楽器なんです。なぜ私がこの楽器を選んだのかというと、本当の演歌が歌いたいからなんです。実は三線も三味線も弾けるんですが、舞台でこの楽器にこだわっているのは、庶民の怒りや声を歌うのに高級な楽器を使っていても説得力がないから。だからあえてこの楽器を使って歌っているんです。
 
もともと私はギターでフォークソングを歌っていたんです。日本のフォークのルーツを追求していったら、音楽のルーツはアメリカにある。じゃあ言葉のルーツはといったら、明治大正演歌にたどりついた。もともと、日本の唄はすべて三味線調。だからギターではできない。このカンカラ三線に感謝しているのは、フォークを歌っていた時は30万円のギターで歌っているときは全然生活できなかった。でもなぜかこの3千円くらいの楽器に変えたら食べていけるようになった(笑)。野外のお祭りで歌った時、(胴の缶詰の部分が)灰皿になってたりもするんですけど、投げ銭入れにもなる(笑)。 
 
カンカラ三線で歌う前に、もう一曲アカペラで歌います。この川上音次郎(音二郎)のオッペケペー節(明治22年)でございます。
 
 
<4>オッペケペー節


このように、もともとの演歌は怒鳴るように、叫ぶように歌われていたわけです。このどなるような演歌を初めて歌にしたのが、添田啞蟬坊(明治5年~昭和19年)なんです。有名な曲もたくさん作っています。啞蟬坊は明治、大正時代に活躍された方で、ノンキ節やマックロケ節、ストライキ節なんかが代表曲です。



<5>ノンキ節


啞蟬坊の息子、添田知道(そえだ・ともみち、明治35~昭和55年)も演歌師のほか、作家としてもやっていたんですが、才能豊かな人で、「ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ」の東京節や「ストトン節」なんかを作っています。親子でスーパースターの演歌師だったんです。ここらへんから演歌は変わってきました。もともとは啞蟬坊も怒鳴るように歌っていたんですね。


<6>拳骨節


カタカナで演歌の歌本に書いてあるんですが、歌詞の「ドクシンローフツエーベー」はすべて国の名前、それらが「シッケイ キワマル ゲンコツバイ」という風刺の歌。
 こういう歌を啞蟬坊が歌っていた時、近所に住んでいたオバさんに「男たちの歌だけじゃなくて、女や子供にも歌われる歌を作ってくれ」と言われて作ったのが「ラッパ節」という歌です。実はラッパ節は(有名な沖縄の歌)「十九の春」の元歌なんです。


 <7>十九の春


啞蟬坊演歌の魅力は、まず楽しい歌で引きつけておいて、最後に風刺でブスリと刺すんです。ちなみにラッパ節はこんな歌。




 <8>ラッパ節


今も演歌が必要な時代なんですが、やる人がなかなかいない。こういうこと(社会風刺)をやると、やる場所がどんどん減っていく。そのおかげでわたしの仕事もどんどん増える(笑)。
 今風刺を歌うと、最近いろんな集会に呼ばれるんですね。僕はそういう活動をしている訳じゃなく、本当の演歌を伝えたいだけ。なのでいつも「岡大介は右翼でもなく、左翼でもなく、無翼(無欲)です」っていうようにしています(笑)。
 明治時代の歌でも今に通じる歌はたくさんあります。添田啞蟬坊さんの代表曲「ああわからない」。いまでもたくさん分からないことありますが、明治の歌詞で歌わせていただきます。


 <9>ああわからない


 最後の歌詞でも出たように、演歌の魅力は政治批判だけではなく、無知無自覚な国民にも訴えかける。これが本当の演歌でございます。私はこのような演歌を継いでいきたいと思っています。


 <ここより啞蟬坊が北海道に来ていた話について大原智也
 
 明治41年(1908年)、青森から入り、函館、森、俱知安、札幌、小樽、旭川と回った。函館は大火(1907年)後だったため、泊まった宿はバラック建て。寝ている枕元に雪が降り込んできて


  灯台の灯またたき頬に痛い雪   啞蟬坊

 
 という句を詠んだ。小樽の会では「わからない節」を歌った<啞蟬坊流生記より>。
 啞蟬坊さんが小樽に来た時には、石川啄木が見ていたという話もあるようです。
 
 <つづいて啞蟬坊の俳句について五十嵐秀彦
 
 ・河豚食うて北を枕に寝たりけり
 ・密会の悲しみを鳴く蛍かな
 ・何提げて師走の風は追われゆく
 ・観音の裏冬空の銀杏哉
 ・雪空や既る灯ともる十二階
 
 五十嵐:解説できるほど、私も知らないんですが、何句かは私でも知っています。一番有名なのは「河豚食うて-」。これはちょっと川柳っぽいと思う人もいるかもしれませんが、俳句で河豚はかなりこういう形で詠まれてますね。芭蕉も「あら何ともなきやきのふは過ぎてふくと汁」なんて句も詠んでますから、なかなか河豚の句としては良い句なのでは。「観音の-」は浅草観音のことですね。啞蟬坊さんが庶民の街である浅草に深く根ざしていたことから見えるようですね。「雪空や-」の十二階とは浅草の凌雲閣のこと。もうないですが、既る(つきる)は食べつくす、飲みつくすといったときの表現ですので、浅草の繁華街にたっている凌雲閣がつきる灯なんだという意味合いを込めているのでしょう。そしてそれが雪空を飲み込んでいるという意味合いなのかなと。なかなか優れた俳句を残されていると思いました。小沢昭一さんも啞蟬坊の大ファン。俳優だけど、民衆文芸の研究者でもあって、ご自身も俳句を作られていることもあります。そういう意味で啞蟬坊さんの立ち位置に小沢さんも共鳴していたのかなとも思いました。
 
 <再び岡 大介
 
 では最後に、私が一番好きな歌で大正時代最もヒットした「東京節」を歌わせていただきます。この「ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ」とは、街のいろんなことを歌った歌なんですが、「平和節」「解放節」という歌詞になったり風刺の歌になります。北海道の歌も作ってまいりました。ちなみに歌詞は洋食屋のメニューを見て適当に作ったもので、意味がないシャレだそうです。


 <10>東京節~平和節~解放節
 
(了)
 
 
☆大原智也 (おおはら・ともや 俳句集団【itak】幹事 北舟句会)


※岡大介さんのご厚意により、当日の音源をアップロードさせていただきました。ありがとうございます。音質については当日ライブ音源につき、どうぞご寛恕ください。また、懇親会も含めまして当日たくさんの方にかんからライブを聴いていただけましたこと、心より感謝いたします(俳句集団【itak】一同)。


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