2016年6月19日日曜日

俳句集団【itak】第25回句会評⑦ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第25回句会評⑦

  2016年5月14日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 

 吊り橋を渡ってよりの花粉症   籬 朱子

何かの動作をした あとに 何かが始まった という俳句構成としてはよくあるタイプではあるが、そのとりとめのなさと、無関係さがよくできている。橋わたって どうこうしたというのも既視感があるが、「吊り橋」が意外とパンチが効いている。花粉症もとぼけていて、俳諧味のあるできになっている。

 夕闇に照らされている苺かな   角田萌

闇に照らされている という表現もねじれがあって好ましい。鼻の先だけ暮れ残る みたいな風情も感じなくはない。苺というふつうであれば太陽の恵みであたたかく、明るく、陽性なものに対して「人生のうすあかり」みたいなものを照らしたのが、俳句構成として違和感があってよいと思う。

 地下道へ吸い込まれたる日傘かな   高橋なつみ

この句も日傘の処理としては地下道にもってきたところが面白い。さんさんとふりそそぐ太陽のもとから、地下道またはガード下のようなところでもよいが、突然くらいところへ吸い込まれてゆく景を読み手に想像させる。吸い込みという謎ある措辞を使用したのが成功している。私は地下鉄へ下りてゆく階段を上から俯瞰したときに薄暗い中で白い日傘がぼーっと浮かび上がる景が見えてきた。

 余花の蝶半端な死者を追ひにけり   五十嵐秀彦

余花の時期に出てきた蝶、すこし旬をずれている。そんな蝶が歩いている人間にまとわりつく。歩いている人間は寺山に言わせると「不完全な死体」なので半端な死者に違いない。まとわりつく蝶も半端な死蝶なのだ。すべての措辞にねじれと鬱屈があり、好みではある。難をいえば「余花の蝶」がうるさい。中七以下で十分うるさいくらいに主張しているから、夏の蝶 でいいのではと思う。





以上です。忙しすぎて、いやなものを早くやっつけたい気持ちで書きました。不平不満はスタッフに申し付けください。次回はもうすこしゆったりと書きたいですね。

(了)


※お忙しいところたくさん読んでいただき、ありがとうございます。ファンがいっぱいいますから、ブログの執筆は嫌がらないでくださいね(^^(事務局 J)

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